坂口安吾の「日本文化私観」には、アテネフランセ創立者であったジョゼフ=コット先生の憎悪に溢れたまなざしについての思い出が記されている。

引用

テーブルスピーチが始まった。コット先生が立ち上がった。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、ちょうどその日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラムを学生に教え、また、みずから好んで誦む。だから先生が人の死について思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談かと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談でないことがハッキリわかったのである。あんまり思いもよらないことだったので、僕は呆気にとられ、思わず、笑いだしてしまった。――その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺してもなおあきたりぬ血に飢えた憎悪を凝らして、僕を睨んだのだ。
 このような眼は日本人にはないのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまりこのような憎悪が、日本人にはないのである。「三国志」における憎悪、「チャタレイ夫人の恋人」における憎悪、血に飢え、八ツ裂きにしてもなおあき足りぬという憎しみは日本人にはほとんどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。およそ仇討ちにふさわしくない自分たちであることを、おそらく多くの日本人が痛感しているに違いない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかくせいぜい「食いつきそうな」眼つきぐらいが限界なのである。

再読して嫌な思い出を想起させられた。それはどうでもいい小さな出来事で、以下に説明する卑小なる小人同士の失笑的小衝突である。

2001年某月某日、ところはラッシュが続く夜の私鉄駅。ガラ空きの車輛が目にはいったので是幸いにと飛び込んでみると、車内はパーティー帰りと思しき星条旗学校の連中十数人に占められていた。

それ以前にも別の私鉄で、なぜかガラ空きだった車輛に乗ってみると、車内は十人くらいの欧米系おチビちゃんたちに占領されてをり、吊革にぶら下がる児、土足のままシート上を飛び跳ねる児、通路をダッシュする児らの叫声に満ちみちた有様で、とうてい大人たちが我慢できる空間ではなかった。

それでも私はわざとらしくドサッとシートに腰を下ろして、わざとらしく新聞を拡げたりして、彼/女らの反応をうかがってみた。すると早速、ドリュー・バリモアを彷彿とさせるリーダー格女子及びその取り巻きが「オッ、オー」と腕組みしながら小癪にも睨みを利かせてきた。その示威行為が全くハリウッド映画の子役たちの身振りそのものなのでなんとも可笑しくなって、思わず「ぷっ」と吹いてしまうと、彼/女らは途端に鼻白んだ様子となり、もぞもぞとシートに正しく座り直し、ヒャッホーッと叫ぶのも止めて、何も無かったかのように大人しい態度を示すのだった(その反応はイマイチよく分からなかった。憎悪の眼はなかったし、降参したわけでも、恭順の意を示したわけでもなかった)。

しかし今回は高校生である。随分酔っ払っているけれどもう大人である。大江健三郎「人間の羊」ではあるまいし、私は躊躇することなくドア脇の窪みに身を埋めて、買ったばかりの俳誌を鞄から取り出しながら彼らを眺めやった。α個体はアーリア青年(仮称・ハンス)―したたかに酔ってをり概ねドイツ語を話している。さらに、その青年にからみついているアーリア女子(仮称・インゲ)及び横で話を聞いている東洋女(晩年の江青女史似)が目に入った。

十分後、下車する駅に着いた(その間日本人はこの車輛を避けて誰も乗車してこなかった)。私に続いてハンスも下車する様子がうかがえた。

ホームに下りてほんの数秒後であった。背中に大きな衝撃を感じた! 思わずつんのめって持っていた俳誌を落としてしまった。私は、あのハンスが酔いつぶれてしまっただろうことを直感し、インゲと江青女史が介抱のために下車してくるだろうことをも予測した。すぐさま振り返って「だいじょうぶか」と聲をかけようかと思った瞬間、ハンスは何食わぬ顔をしてそのまま通り過ぎて行ったのである......。
Nanu!?

ハンス君は千鳥足のふりをしながら私に酷烈なタックルをかましていきやがったのである。

  • 「Sieg Heil!」(手を挙げて)
  • 「糞ナチの下衆野郎め!」
  • 「卍の手裏剣をお前の顔面にお見舞いしてやろうか」
  • 「今度やるときは、独逸抜きだ」
  • 「ドイツ料理、すなわち、豚の食い物」
  • 「おまえんとこの代表選手は全員トルコ人になればいい」
  • アインシュタインは決してドイツ人ではあり得ない」
  • 「お前らの国歌はブラックメタルこそが相応しい」

もちろん彼がオーストリア人、スイス人、アルザス人、あるいは普通の英米人etcだった可能性はあるけども、英語なり独逸語なりで当意即妙に悪態をつけたらどんなに楽しい思い出となったことであろうか。

然しながら、カッと頭に血がのぼった愚生はずいぶんと無頼な一言を口走ってしまったのである。それは、嘗て小田急線を牛耳っていた死舘生が呟けばこそサマになるであろう匕首をふくんだ罵倒語なのであった。自分の柄に合わない言葉、身についていない言葉、強がるために拝借する言葉......。プラットフォームから拾い上げた『俳句現代 読本西東三鬼』(2001年1月号)の表紙の三鬼が「君ねぇ、俳句がお好きならもう少し沸点を高めにもってこないとね」とこちらを嗜めているように見えた。まったく忸怩たる思いだ。

ここでようやく安吾に戻るけど、この忸怩たる思いとは別に、あのハンスをインゲ+江青女史ともども八つ裂きにしてやってもいいという野蛮きわまりない気持ちが、いまだ愚生の胸の内に燻っているのである。日本人とは、決してまなざしには現わさないけれど、静かに憎悪を抱き続ける人種なんじゃないのか!?

たしか高校時代に、友人の同級生が星条旗学校の生徒を電車から引きすりおろして「ゴメンナサイ!」と哀願させるまで殴り続けたという非道い話を聞かされたことがあった。それは、北野武監督『BROTHER』ではないけれど「Fuckin' Japくらいわかるよ! 馬鹿野郎!」というシチュエーションだったらしい。当時は「なにもそこまでやらんでもいいじゃないか」という暗い気持ちに襲われたことを覚えているが、そうしたゲバルトによるコミュニケーションに至ったほうが精神衛生上はずっと健康的かもしれないとは思う(勿論その殴られた奴は蛇の様な怨嗟をいまだに抱いて屈託した人生を送っているかもしれないけど)。

こうした蟠りは、相手が外国人ゆえだからであろうか? そうである気もするしそうでない気もする。いずれにせよ剣呑な心境だ。「ペンは剣よりつよし」なんていう格言をストレートに信ずるほどお人好しではないけれど、できるだけ言葉のパンチで相手にダメージを与える、あるいは、解決へと事を運ぶほうが人生味わい深いはずである。嘗てのジョン・ライドンも云っているではないか―「病気で身体が変形しちまっているような俺には言葉が武器だ。ステージでカシモトやリチャード三世を演ずるつもりで歌うのだ」と。

そんな・こんなを苦々しく想起しながら偶々図書館で手に取ってパラ読みしたのが『思想地図 Vol.1 特集・日本』所収の、韓東賢「社会的関係と身体的コミュニケーション――朝鮮学校のケンカ文化から」だった。日本人学生と朝高生との抗争について、元・朝高生たちへの取材をまじえながら当時の様子が述べられている。以前、都営地下鉄の駅文庫でいただいた『アウトロー伝説・「昭和暴力史 危険対談 国士舘VS朝鮮高校」』(ワニブックス)が、やはり、参考書としてあげられていた。

思えば中学生あたりまで、学区を越えた土地に足を踏み入れるときはちょっと緊張したものだった。私のように喧嘩の作法などまるで心得ぬダサ坊(ツッパっていない人間はそう呼ばれた)は、危険が匂ってきたら(そう、まさに、匂いがしたものだ!)「君子危うきに近寄らず」戦略が最良の選択だったのである。

とくに私らの世代は校内暴力が非常に盛んだった時代にあたり、それほど喧嘩が強いわけでもないのにファッションとして悪童ぶりたがる奴も少なくなかった。校内暴力とは関係ないが、当時は通学路の雑居ビルに暴力団が平気で入っていたりして、暇をもてあました(迷彩服に身を包んだ)団員に恫喝されるクラスメイトがいたり、なぜか搗きたてのお餅を沢山もらってほくほく顔のクラスメイトがいたりして、今考えるとおおらかな時代ということになるのだろうか。しかしそのおおらかさの代償というべきか、悪童たちの犠牲になった同級生たちは、これからもクラス会、同窓会などに参加することはないであろうし、一生癒えない心の傷を抱いて生きているのかもしれない。はじめて某・大掲示板に学歴差別的な、あるいは、暴力的属性が顕著な人間たち対する呪詛ともいえる悪罵を目にしたとき、もしかすると彼ら「名無し」は同年代(既に中年)の人間かもしれない、と思わされたものだ。

さて、私が住む地域は朝鮮学校がないので、又聞きの又聞き(のその又聞き)による情報にはすっかり尾ひれがデコレートされてをり、謂わば「都市伝説化」していた。今でも記憶にある傑作は、友人の兄の友人のそのまた友人が絡まれた時「お前、名前いって見ろ」と詰問され、どうしようかと藁をもつかむ気持ちでいたところ、ふと目にしたのがラーメン屋さんの札。

「エイ・ギョーチューだ」
「なんだお前、中国か。いってよし」

という具合である。

しかし、高校以降になるとツッパリ文化というものは影を潜めはじめて、澁谷の「バックドロップ」で買ったアメカジ(死語か?)に身をつつみ大層美人な女の子を篭絡し自分の女にしたり、陸サーファーを気取ったりするのが元・悪童のセンスある身の振り方であり、街場で生半可な連中に絡まれたときは、わざと脆弱な振りをして相手を油断させ直後に残酷な返り討ちを浴びせるというのが暴力作法として賞賛されていたようだ。その感覚が、やがてチーマー(死語?)のエートスへと発展していったのだろうなあと、大学の後輩(元・ツッパリ)がセンター街で彼ら一団と対峙した顛末を聞かされて思ったりした。

「タイマンだこの野郎!っていったら、『タ・イ・マ・ン? なあーんだそれ?』ですよ。三対三だったのがいつのまにか三対十になってるんですよ。ポケベルで仲間を呼んだらしいんですよね。こっちの一人が眼がねかけてたんですけど『あいつの眼を狙え、眼鏡を叩きつぶせ』って、そいつめがけて数人が一斉に襲ってくるんですよ。話になんないですよ」

喧嘩からロマンを滅却してコンパット・ファイト化するのがトレンドなんだなぁと、遠い世界の住人として感想を抱くしかなかったのだが、時代の気分と多分に相即していることを実感したことは確かだ。同時に、じつは、チーマー的な感覚の方が私にとって都合がいいと感じたのも確かなのである。なぜなら私は、いわゆるツッパリ達が発信する喧嘩のプロトコルがどうしても理解できなかったからである。なぜ火の粉がふりかかったとき、道具、武器を使用してはならないのか、なぜそれを利用するとたとえ相手を打ち倒しても「危ない奴」=「基地外」として扱われるのか得心がいかなかったのだ。「おいこらぁ〜、金だせや」と屈強な兄ちゃんに絡まれたとき、その男の顔面をナイフで切り込んでいくのがなぜ「卑怯」なのか?
だから昔日の喧嘩屋が、弱い人間(喧嘩の意志の無い人間)を相手にしなかったというのは、美談云々などではなく、道理として当然だと考えるべきじゃないかと思う。韓東賢氏の上掲論にもあるが、終戦直後にティーンエイジャーだった在日朝鮮人の相手は、当たり前だが、同世代の学生なんかではなく、肉体労働者・愚連隊・ヤクザであり、喧嘩というよりいつ殺し合いに発展するかわからぬ闘争だったということだ。

私は小学校の時分に、カッとなると「切れて」しまう基地外系の友達と喧嘩して壁に後頭部を叩きつけられ、それによって、小さな(ごくごく小さなもので差しさわりは殆ど無い)後遺症を負うことになってしまったので、人間同士が本気に暴力をふるったら決して劇画のようにはいかないことが強迫観念化しているだけかもしれない。もちろん悪童たちはそれを踏まえた上でどこまで心理的に相手を威嚇し萎縮させるかを強さの基準としていたわけだが、所詮は物語を共有する間柄の話にすぎないではないかと思う。

だから、という接続詞はおかしいかもしれんが(きっとおかしい)、アメリカ人が銃を持つことに固執することを私はすんなりと理解できるのだ(物凄い飛躍を込めて)。

なんだか常にも増して話が妙な方向へと拡散してしまった。
イイ歳こいて安吾なんぞ読むとそうなってしまうのかな。

解毒剤として、A・プランティンガ『神と自由と悪と』でも読もうかしら。

ワルボロ

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