『河村要助の真実』

河村要助の(いくつかの)作品を眺めていたらある感覚が蘇ってきた!
(言葉にするのが非常に厄介なアノ感覚は誰もが経験するものなのだろうか……)
当たり前ではあるが、絵画/イラストレーションにおいては――特殊なギミックが施された作品は別として――描かれたものは静止画像であり、そこから、われわれはごく自然に、描かれた視覚像にはおさまらない何らかの感覚をも味わっている(はずである)。
それは描かれた対象の動きの様態(完了的、継続的、潜在的)でもあれば、視覚を超えた諸感覚であることもあろう。たとえば、音、肉声、寒暖、肌触り、etc かもしれず、あるいは、それらの前触れ/それらに対する構えのようなものかも知れない。
ところが、蘇ってきたある感覚というのは、そのような諸感覚が一切断たれた極めて純度の高いスタティックなムードのなかで、「この作品はいまこの私が鑑賞していることを認知しているのだ」という、眼前の作品からの静謐な反応に対する(私の)反応なのである……。
これ以上説明する能力はないのでこのまま放り出してしまうが、「絶対静止絵画系電波」とでも造語しようかと思う上記の感覚を、河村要助の(いくつかの)作品を鑑賞して思い出したのである。
この電波が届いたのは5歳のときに読みふけった『エルマーのぼうけん』『エルマーとりゅう』『エルマーと16ぴきのりゅう』の挿絵が最初だった気もするし、あるいは、ようやく物心ついた頃だろうか、たしか3歳の終りあたりに眼にしたアンリ・ルソーの展覧会目録を眺めたときに初めて感受した気もする……。いずれにせよ、現在それらの作品を眼にしても「絶対静止絵画系電波」が届かないのは確かであり、いまこの日並記を記しながら、そのうち河村要助の(いくつかの)作品からも、その「絶対静止絵画系電波」は届かなくなるのかも知れないと感じはじめている……。

眠いので何を記しているのか意識が混濁してきた。
このことについてはおいおい煮詰めてゆきたいとは思うが、いま、他者の意識をはじめて感受した瞬間が蘇っているのかもしれないなどという所謂精神分析的な思いつきが到来した……が、このようなことは単なる浅はかな思いつきとしてとどめておいて、あまり深く考えないほうが心の健康のためには良いのかもしれない。
※明日以降当エントリを読み返して、あまりに意味不明なようでしたら削除するかも知れません。おやすみなさいませ。

河村要助の真実 (P‐Vine BOOKs)

河村要助の真実 (P‐Vine BOOKs)