森下くるみ、「葱坊主とひろみお姉ちゃん」、『文学界』2010年4月号

学童期の著者が突然少女版ムルソーと化した(とも言うべき)思い出を綴ったエセイ。そこには、(太陽のせいではなく)特別何の理由もなしに年長のお友達の頭を石で殴りつけて血まみれにした少女の姿がある。


このエセイから、名状しがたい恐怖に襲われた幾つかの悪夢と、幼い心に芽生えたある種の暴力性向とが思い出された。

  • 母の友人に手をひかれ馴染みのうすい電車に乗る。遊園地のような場所に向かっているようである。トンネルを抜けると藤城清治の如き影絵の世界になっている。それが遊園地のアトラクションではなく世界自体がそうなってしまったらしいことに気づく。不安にかられ母の友人を見上げるわたし。
  • 声をかけられ振り向くと、大根が突き出た買い物籠を提げた母の姿は幼稚園児が描くクレヨン画と化しており、すでに世界全体も稚拙なクレヨン絵画に変貌していることに気づかされる。恐怖に慄くわたし。
  • 静かな街。誰かの気配に振り向くたびに自分の視界に納められた人間たちはペーパークラフトに変じてしまう。恐怖に慄くわたし。

以上の悪夢を確か四歳くらいのときに見てをり、このあたりから深夜寝息を立てている父母の存在が、心が消滅してしまったモヌケノ殻としてしか思えなくなってきたのを覚えている。そのたびに、この世界に戻ってきてくれることを祈りながら父母たちを揺り動かしていた。

それからほどなくして、紙・粘土・木材などで拵えられたひとがたを潰す・砕く・投げつける行為がとてつもない愉楽をもたらしてくれることに気づき始めた。重要なのはよく作られた既製品の人形では駄目だということだ。稚拙なまでに単純化されたフィギュアを破壊対象とすることが必要条件であった。

紙のお面、粘土のお面、紙を切り抜いて立体化したひとがた、粘土でこさえた球(頭部)と矩形(トルソ)と棒(手足)によるにんぎやう達が脅迫的なオーラを放つのを想像し、わたしはその瞬間、そいつらを殴り、足蹴にして滅茶苦茶に破砕していくのだ......その、なんともいえぬ愉悦感!

今になってその行為を解釈すれば、「この世界内で物事を感じたり考えたりする存在は自分以外には無くて、このわたしだけがポツリと寂しく孤独に存在」している可能性を潰そうとする一種の悪魔祓いであったのだと思う。周囲の親しい者たちが単純なひとがたに還元していくことをボクは阻止できるのだ! という力能感を味わっていたのに違いない。

もしこの感覚が捩れつつ過剰に発達したならば、突然目の前の友達が謂わば「哲学的ゾンビ」に変貌することがあったのかもしれない。そしてその存在を、「もしかするとボクはこの世界内で偶々心を持った唯一の存在者なのかもしれない」という恐怖の深淵を覗かせる悪意そのものとして感じることになったかもしれず、そのときは、突発的な破壊衝動にかられ彼の頭を石を用いて砕こうとしたのかもしれない。

ちなみについ最近も、地下の駐車場に幼稚園児が作成した粘土のお面を販売している奇妙なお店が登場し、その面をかぶった店員がわたしに敵意に満ちみちた笑いを向けてくるというミョウチクリンな夢を見た。まだまだわたしは、原始的な恐怖心をどこかに抱えているのに違いない(笑えない話だ)。

ところで、V.E.フランクルは四歳のある晩、彼自身もいつか死をむかえることに気づき、そうであるならば、この生きている現実に何の意味があるのだろうかと青ざめ自身の哲学の端緒を得たのだそうだ。

フランクルが斯くの如き慄きを体験したことによって後に『夜と霧』が著されたわけであるから、尋常でない、尊い慄きであったと言えるだろう(とわたし個人は思う)。

人生があなたを待っている―『夜と霧』を越えて〈1〉

人生があなたを待っている―『夜と霧』を越えて〈1〉