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きのうの続きになるけど、高濃度の子供スペクトラマン(造語です)のなかには、両親をはじめ周囲の人たちをロボットか操り人形のように感じていて、かつ、世界とはそんなものなのだろうと平気でいられるタイプが存在するらしいのだが、その「平気でいられる」感覚はオレには全く理解できない。
一体そんなグロテスクな世界にあってどうやって平気でいられたのだろうか?
今日一日そんな益体もない疑問につきまとわれていて、そのうち、ニキ・リンコさんの著作が猛烈に読みたくなったので、『俺ルール!』(花風社)所収の名作、「おまわりさん」及び「無印ファスナー」を翫味・味読する。
引用させていただきます(pp98-100:「無印ファスナー」)
三歳以上八歳未満のいつのことだったか、保育園か幼稚園か小学校のいずれかで、園長先生か副園長先生か校長先生か教頭先生のいずれかの着衣の、どっかのファスナーを引っぱって開けてしまったのである。
理由は、「そのファスナーのつまみに、『YKK』という刻印がなかったから」。
私は、ファスナーには「YKK」と刻印してあるものだと思っていたから、どう見てもファスナーに見えるのに刻印のない物体をみると驚いて、「もしかして裏にあるのかな」と裏返してみた。
裏にも、刻印はなかた。
そこで、「この物体は、果たしてファスナーの機能を果たすのか?」と思って、実験してみたのである。
ファスナーそっくりの謎の物体は、するすると開いた。
これは大変なことになってしまった。
なにしろ、私の住む世界では、「ファスナーには『YKK』という刻印がついている」ことになっている。
それなのに、「YKK」の刻印がないのにファスナーの機能を果たす謎の物体が現れてしまった。
ということは、私は、知らないうちに、住みなれた「ファスナーには『YKK』の刻印がついている世界」から連れ去られ、「ファスナーに『YKK』の刻印がない、別の宇宙」に閉じ込められてしまったのではないだろうか?
どうしよう。もう、おうちには帰れないかもしれない。
私はうつむいて、ぐしゅぐしゅと泣き出した。
「おうち、なくなったの」「くぬぎの森、なくなったの」と言って泣いたが、被害者を含め、聞いていた大人たちは意味不明だったことだろう。
本当に貴重で得がたい体験だよなぁ――なんとなれば、P.K.ディックの世界を実体験しているのだから! と思うのと同時に、彼女の泣き出してしまった気持ちが痛いほどよく分かる。恐怖だからね、そんなの。“...恐怖だ...。”(カアツ大佐の如く呟く)
ところでわたしには、昨夜記した幼児期の暴力性向の残滓がいまだにあり
- ダミーを使用した衝突実験映像
- Herbie Hancock, Rockit の
ヴィデオクリップPV
上記の如き世界にはどうしても目を引きつけられてしまう。人間が「ひとがた」世界を宰領していることの安心感を求めたい気持ちがあるため、だろうかと思う。
但し、下記までに芸術的に昇華された「ひとがた」世界となると、どうもそれとは違う理由で魅了されていることに気づく。
- 例えば、ブラザー・クエイの Street of Crocodiles
- 例えば、Jiri Barta (イジィ・バルタ)の「見捨てられたクラブ」(1,2,3)
- 作者: ニキ・リンコ
- 出版社/メーカー: 花風社
- 発売日: 2005/07/01
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