『バルタザールどこへ行く』+K戦略

京橋のフィルムセンターでロベール・ブレッソン監督『バルタザールどこへ行く』('64)を観た。七分程度の入りだろうと予測していたけれど満席(310席?)であった。

素晴らしい作品だった。
ロバが登場する単純な(≒プロットが複雑ではない)ストーリーなのだが、約90分間、私の中では様々な思いや連想、読み取りが錯綜とした。

いまざっと日本語ブログを閲してみて、バルタザール(ロバの名前)は我々の「鏡」の役割を果たしているという見方に出会ったが、なるほどこの愛(かな)しきロバ、バルタザールを、個人というより観客ひとりひとりの他者に対する関係の持ちようの「鏡」だと見なすのは、一言要約的には妥当な気がする。少なくとも、「素晴らしい」「美しい」「厳しい」の後に付け加える言葉の(勿論それだけでもいいのだけれど!)とばくちとして有効であるに違いない。

上映終了後、ドナルド・リチーさんのスピーチがあった。彼の、川喜多かしこさんの業績の顕彰と彼女の的確な選択眼を称揚する文脈のなかで、「もし今日、『バルタザールどこへ行く』を「可愛いロバが登場する映画です」と宣伝したとしても興行的に成功することはないだろう」というくだりが可笑しかった。

可愛いロバを観にくるはずだった夏休みの親子づれが暗澹たる表情で映画館をひきあげていく姿、「バルタザールではなくポニョに会えばよかった」と後悔しながら......それこそ、ブレッソンの構図じゃなかろうか。

バルタザールがフォーカスされるシーンに流れる、シューベルトピアノソナタ第20番 D959の第二楽章


帰途、銀座のブックファーストに寄る。

面出し中の、苫米地英人『超人脳の作り方』をパラと捲って驚いた。先日のエントリで、柳美里さんの連載小説『オンエア』で見つけた、女子学生ディベーターが『監獄の誕生』を買ってしまうという描写を、まさに小説ならではという風に扱ってしまったのだが、なんと現在のNDTでは「K(Kritik)」というハイブラウな戦略が存在し、主にネガ側(否定論側)が、例えばハイデガーフーコーデリダ、仏教などなどに依拠しつつ、‘Bio-Power’ ‘Capitalism’ ‘Buddhism’という極めてラディカルなアーギュメントを駆使することがあるそうなのだ!

斯界(ポリシーディベート界)は決して十年一日ではないことを知っていたけれども、既にそこまで来ていたとは知らなんだ。己の不明を恥じるのみです。

しかしまぁ、1947年に米国陸軍アカデミーで誕生した世界で最も高度なディベート界が、文化左翼(By Rorty)の親分たちや、カウンターカルチャー世代が信奉していた異文化の宗教言説を、まさに「Utilitarianism」「Pragmatism」の精神のもとに貪欲に摂取していたとは......。

二十年もまえのこと、ふざけて「Deconstructive-Counter Warrant!!」と叫び、黒板に書かれたプロポに取り消し線を引いたりして、周囲から「わけわからねぇぇ」と冷たい反応を受けたりしたことがあったけれど、いまだと「そりゃ笑える!」なんて返ってきそうじゃないか。

苫米地さんの著作はちょこちょこ拝読しているけれど、今日ほど驚いたことはないなぁ。

そのせいと言ってはなんだけれども、『バルタザールどこへ行く』を観た喜びの何分の一かがどこかへ行ってしまった感もあり、損したんだか得したんだか判らんというのが正直な感想。

といいながらも、特に、アカデミックディベートについて基本的な事柄を知っており、かつ、久しく(二十年くらい)この世界に触れていない方には、この本は結構お買い得だと思うので、お勧めします(申し訳ないけれど私は全部立ち読みしてしまいました。でも、そのうち購入すると思います)。

知的生産力が無限大にアップする 超人脳の作り方

知的生産力が無限大にアップする 超人脳の作り方