螺焼き
◆艸はやっぱりアノ根っこの図説を落掌したようだ。オレといえば、ほぶらきんと『蔵六の奇病』をヤフオクで落札しそこねたぞ...。
◆「はやく、CDと書籍を半端なく大人買いできる大人になりたい!」(妖怪人間ベム調)
◆半端でなくというのは、そうねぇ、金額でいうならば……弐百萬円!!くらいかな。
◆この経済的停滞、ダメさ加減をなんとかしたい(しかしホント、一度ダメになると元にもどるのも並大抵ではないスね)。
◇蒲田だか新宿だかの飲み屋でチンピラと大喧嘩した挙句ノックアウトされた坂口安吾が、さっそく翌日見舞いのふりして安吾のザマを見物に来た中原中也を回想して「流石に詩人だうまいことオレの顔を講評していきやがった」みたいなことを書いてたのは何だったっけ。
■数年前、いまでは故人となられた重鎮俳人のおひとりと偶然お話する機会があった。話が阿部青鞋におよんだので、オレはいまこそチャンスとばかり青鞋とキリスト教及び仏教のつながりについて訊いてみたのだが、その重鎮は一瞬不快な表情をみせて「そんなプライベートなことは知らんよ......」と言うにとどまった。
■言外にどんな意図や気持ちがあったのかは判断できなかったが、優れた俳人の宗教的変遷を単に“プライベートなこと”として片付けるのはいかがなものか、と僭越ながら心の中でつぶやいた。
■とはいえそこには、なぜ俳句においては“文学性”が、たとえ表だった形で言上げされることがなくともつねに背景的(通奏低音的?)なテーマとなり得るのかという部分とガッチリと繋がっている気がする。
■というのも普段の会話においてさえも、(間接的にも)一切ご縁のない俳句作家の作品に触れる際、どこか他人様の領域に不躾に踏み込んでいるかのような後味の悪い気持ちを抱くことがあるからだ。
■なんというか、ひとさまの日記や饅頭本なんかについてアレコレ言ったり詮索したりするような......。
■そうそう! 喫茶店でNさんが(現在も存命の)大重鎮のお名前を口にした途端、隣席の御婦人たちがハっとした表情でこちらを注視したことがあったっけ。あの方たちの持つムードは完全に結社の人々のそれだったな...。
□たとえば、故人の遺品を整理していたら“何十年ものあいだひそかに書きためられていた俳句帳が見つかりました”という話にはどこかしみじみしたムードを感じるけど、“何十年ものあいだひそかにものされていた川柳ノートがみつかりました”となると「なんで隠れてやってたんだろう?一度くらいどっかに発表すればよかったのに」と、ちょっと滑稽な感じすらする。
◆そういえば三橋敏雄が、社会批判のインパクトとなるとそれはもう俳句ではなく川柳に軍配が上がる、というようなことをどこかで喋っていた記憶がある。
◆とはいえ鈴木六林男や渡辺白泉には“俳川柳”と呼びたくなる見事な作品がある。