夏石番矢『俳句のポエティック 戦後俳句作品論』

なかなか入手できなかったのだが、隣町の図書館にあることが分かり、即借りる。
ちょっと興奮している。特に、加藤郁乎、鈴木六林男論はすぐさまコピーしてしまった。

最近、何か考えてもそれを記す余力がなかったので、大変刺激された。戦後俳句について様々な俳人・批評家の(夏石さんレベルの)論考を纏めて100編ばかり読んでみたいが、俳誌って、部外者・素人はなかなか入手できないのが痛い。神保町「B」の俳句コーナーも半ば閉鎖状態だし、オークションは当てにならんし......そうだ、茗荷谷の「T」はまだあるのかなあ。ご店主はどこか加藤楸邨に似てらっしゃたね(笑)

林田紀音夫俳句全集は全部読めないうちに返却期限を過ぎてしまう。この全集は買うべきだと感ずるが、いまは全く余裕がない(年内でも無理かな)。ともかく、ヨミサシ状態ではあるが、紀音夫が決して寡作家ではなかったこと、そして、昭和50年代から有季定型の途を歩んだこと、そこに「もうこのままでは続けることができない」という自覚があったこと、などが分かっただけでも収穫とすべき。
(でも、季語、そして、措辞について考えているうちに、なんかぐじゃぐじゃになってきたので、どこかで整理したい)

あまりにもジャンプした連想だが、批評子の「季語に屈する」という言葉から、波郷の「俳句は文学ではない」という呟きが思い起こされた。殆どの存在にとって、個人は時代とシンクロせざるを得ないのだから、俳句に限って恒常的な文学的境位を要請することは必ずしも正当化されるものではないはずだ(もちろん読者が期待することは自由)。

それなのに、少なくとも私は、なぜ、花鳥諷詠、有季定型、自由律、前衛、社会性、はてはヘップバーン風(笑)と、なんでもこなす俳人を期待しないのだろう。おなじく、和歌、連歌、俳句、連句、短歌、川柳、詩なんでもござれという短詩人の登場も殆ど期待はしていない(高橋睦郎さんの試みには敬意を払っていますが)。

小説というジャンルなら、越境的作家はごろごろしており、そこに違和感を感じることは殆どない。あるのは「作品自体の良し悪し」(そう、坂口安吾!)だ。

俳句というのはナ、人生・生活そのものなんじゃ。そも、あっちについたりこっちについたりすることはできないものなんじゃし、できても易々と許容すべきことじゃないのじゃ、と、脳内の仮想翁は言う。でも人生、あっちについたりこっちについたりすることで堂にいる御仁もおりますよネ、と、脳内の仮想珍念は言う。

林田紀音夫を読んだら頭の中はこんなことで一杯になってしまった。これ以上考えてもせん無きことなのだろうか。お休みなさいませ。