YouTsubuyaku01

横尾忠則さんのこれ、凄く納得。ただ無目的に、つまり、自由に散歩するときはどこかしら焦燥感or虚脱感がまとわりつくものだ。それに、仕事で(ちょっと)鈍詰まったときはタバコor飲み物等を買いにいく為の散歩が、その停滞を解消するためのかなり有効な手段であるはどなたも経験なさっていることだろう。そうそう、喫煙行為というのも「目的のある散歩」と同様の効用をもたらしていたのだろうなぁ(断煙して十年が経つので過去形)。
◇なにかしらの効用が発生する事理は右のような感じだろうか:ちょっとしたことのために歩かなくてはならない。なので少なくともその間はあれやこれやの懸案事項に時間を割くことはできない。なのでその間は考えることぐらいしかできない。歩行中は書記できないので煩瑣なことは考えられない。もちろん、往来に注意しなくてはならないのでシンプルなことをに考えるしかない。
◇ということで、「あれやこれやを〜せねばならない」という潜在的な欲求・焦燥・葛藤から隔離・解放された立場を正当に(なんとなればある目的のために歩かねばならないのだから)獲得することになり、その直前までは抑制していたor無視していた比較的自由な発想/着眼点・フィーリングを素直に受けとめやすくなる、という次第なのかもしれぬ。
◇近い将来、“歩きながらでも仕事場と同じ環境が与えられるディバイス”みたいなものが開発されるのだろうか? しかしそれは、鈍詰まった脳みそをシャッフルするのに「目的ある散歩」が有効な人間にとって、かなり迷惑な代物となるのではなかろうか。
◇いまの二十代以下の世代は携帯電話がない世界が想像できないという話をしばし耳にする。しかしおれは、携帯電話が一般に行き渡っている世界を生きる思春期世代の気持ちをよく想像することができない。
◇おれは、できることなら携帯電話はなくなって欲しいと感じている。それによって仕事の効率性・生産性がダウンする、人々との出会いの機会が減少する、それがあれば救える命も(おれのも含めて)救えなくなることがあり得るなどなど一向にかまわない。カーティス・鬼畜・ルメイのような人間が世界を原始時代に戻してしまっても一向にかまわない。
◇いや、最後のジャンプした一行は冗談にしとかないとまずいのかな――だいいち世界が原始時代にもどったら死ぬまでブーブー文句垂れていそうだぞ。おれ。
◇と、自己突っ込みをいれつつも、廃墟のなかであたらしいコミュニティを営みながらリスクに溢れた現実をそれなりに楽しんで生活している、仮想世界のわたくしを妄想するのも愉しいものです。
◆以下の本を図書館でパラパラめくったことがあったけどすぐ書棚に戻してしまった。今日みたいな気持ちになっているときは多少は楽しめるのだろうか。

災害と千年王国 (1985年)

災害と千年王国 (1985年)