∃(すくなくともひとり以上の・・・)


幼稚園児のころだったか近所のうどん屋さんの電柱にかけてあったベニヤ板貼りポスターの「男はつらいよ」を、おれ様は「男/はつらいよ」と、ぎなた読みしてしまったのであった。

それからしばらくは、“は(ha)つらい”って一体どういう意味だろうと気にかかっていたのだが、そのうち「は」が助詞であることに気づき(あるいは親に訊いて)ただしく読めるようになっていた。

と同時にこの出来事を、「ぼくは『男わつらいよ』を『男はつらいよ』とまちがってよんでしまいました」と日記に書きつけた場合、事実をそのままのかたちで正しく伝えることができないことに気づき、そもそもなんで「男は」の「は」を「わ」と表記しないのだろうかと謎に思ったのである。

賢い子供であればすぐさま親や幼稚園の先生に聞くなりするだろうし、神童レベルの子供であれば日本語の歴史に係わる参考書などを自ら探書し見事卒読していたのであろう。

山田洋次監督『男はつらいよ』の文字面を目にするたび如上の思い出が頭をかすめ、「あーなんでボキは暗愚に生まれてきたのだろう…」と嗟嘆するそばから 「それをいっちゃあおしまいよ」と幻影の渥美清が顔を出すのであるが、世の中はおもった以上に広いのでわたくしと同じ連想につきまとわれるひとも全国にひとりは存在するのではないかと思うのだ/思いたい。