年末・年始は嫌いな人事・時候の筆頭だ。
小学生のときは祖母からクリスマスプレゼント及びお年玉をもらえるので、それだけが楽しみで、全体的には鬱気分にあった。
高校生から廿歳にかけて大晦日の晩は近所の友人の家で過ごしていたので、「オールナイトフジ」のような低俗番組をかけ流しにしながら、音楽を聴いたりバカ話したりするのが楽しかったが、やはり全体的には鬱気分にあった。
前にも記したが、改暦にもかかわらず、ますます寒くなる一月を「新春」と呼び慣わしていることにも、文字通りものごとをとらえようとしてしまう癖のある私としては寒々しい違和感を感じていた。「日本人たるもの厳寒のなかに春の訪れを知れ」みたいな無理筋の感受性を押し付けられているかのような被害妄想的な気分に陥っていたのかもしれない。「心頭滅却すれば火も亦涼し」の逆と云えようか。とはいえ、冬至をすぎて徐々にまた陽が長くなってきていることに気付くのはちょっといい感じではある。
あと自分には、じゅうぶん party pooper な困った属性があるので、パーティーのような場所では何か粗相があるのではないかと心配で充分楽しむことができない。大声で笑ったりしていても自己検閲がかかせないのだ。だから大層疲れる。
たとへば、合コンというやつは数回しか体験したことがないが、いまだに、「あのとき右端にいたひとと全く会話できなかったけど随分失礼なことしっちゃったなー」などど、そのひとの顔も名前も、というかその催しに関することの殆どを覚えていないというのにひたすら恐縮することがある。
それから、結婚パーティーで知人が司会を勤め務めたときも、過度に緊張した彼が随所でムードを高めることに失敗する様を目の当たりにして、「もしかしてここに俺が居なかつたら、彼はもつとリラックスして役割をこなせるのではないか……」と惱むことすらあつた。かうなると病氣の一種だらふね。
白目高さんのように愉しく酒を飲みながらひとと語らうことができる才能が備わっていればなーといつも思う。