岡倉天心『茶の本』
岡倉天心の『茶の本』は良い英文なので是非読むといいと、以前誰かにすすめられた記憶があるようなないようなで、ともかく読了。
英文だけを読むつもりであったが、頭でっかちな倒置が多くて読みづらく、存分に桶谷秀昭先生の訳文を参照した(泣)
一読してこの(準)古典は、本朝文化エリートが放った欧米文化人に対する(東アジア文化圏の卓越性の)マニフェストだという印象をもった。
思わずノートに記した部分を引用させていただきます。
'THE SCHOOLS OF TEA' (p201)
Wangyucheng eulogised tea as “Flooding his soul like a direct appeal, that its delicate bitterness reminded him of the after-taste of a good counsel.”桶谷訳(p32)
王禹偁は葉茶を賞めたたえて、「直言の如く魂をどっと潤す」と言い、「その微妙な苦味はよき忠言のあと味を思い出させる」と言った。
私のような平民にも何ゆえかこの喩えに納得させられる。もちろん十世紀の茶の味など知るよしもないのだけれど、煎茶の味は「よき忠言のあと味」に似ていることだわいと、勝手に思う。
'TAOISM AND ZENNISM'(p195)
Translation is always a treason, and as a Ming author observes, can at its best be only the reverse side of a brocade, ― all the threads are there, but not the subtlety of colour or design. But, after all, what great doctrine is there which is easy to expound? The ancient sages never put their teachings in systematic form. They spoke in paradoxes, for they were afraid of uttering half-truths. They began by talking like fools and ended by making their hearers wise. Laotse himself, with his quaint humour, says, “If people of inferior intelligence hear of the Tao, they laugh immensely. It would not be the Tao unless they laughed at it.”桶谷訳(pp36-37)
翻訳というものはつねに反逆であり、明の一著述家が述べているように、せいぜいよくても金襴の裏地であるにすぎない。糸は一本残らず織られてあるが、色彩や意匠の精妙さは失われている。だが、結局、説明しやすい偉大な教義というものがあるだろうか。昔の賢人たちはその教えを組織立ったかたちで示したことはない。彼らは逆説で語った。半真理を口に出すことを怖れたからであった。彼らは愚者のように語りはじめたが、語りおわったとき聴衆は賢くなっていた。老子自身。奇警なユーモアをこめて言う。「知性の劣った者が『道(タオ)』について聞くとき、彼らは大いに笑う。笑われないようなものは、『道(タオ)』ではあるまい。」
卓抜な比喩だ。この一節は英文とともに暗記したいくらいである。
'TAOISM AND ZENNISM'(p188)
These Taoists' ideas have greatly influenced all our theories of action, even to those of fencing and wrestling. Jiu-jitsu, the Japanese art of self-defence, owes its name to a passage in the Taoteking. In jiu-jitsu one seeks to draw out and exhaust the enemy's strength by non- resistance, vacuum, while conserving one's own strength for victory in the final struggle. In art the importance of the same principle is illustrated by the value of suggestion. In leaving something unsaid the beholder is given a chance to complete the idea and thus a great masterpiece irresistably rivets your attention until you seem to become actually a part of it. A vacuum is there for you to enter and fill up the full measure of your aesthetic emotion.桶谷訳(pp43-44)
こういった道教の思想は、剣術や相撲にいたるまで、われわれのあらゆる活動の理論に影響をあたえている。日本人の護身術である柔術は、その名を『道徳経』の中の一句から借りている。柔術は無抵抗、すなわち虚によって、敵の力をひきだし、使い果たさせ、一方、自己の力を温存して闘いに最後の勝利を得ようとする。美術において同じ原理が重要なことは、暗示の価値が例証している。何ものかを言わずにおくことによって、見る者はその思想を完成する機会をあたえられる。かくして、偉大な傑作は見る者の注意を否応なくくぎづけにして、ついに見る者が現実に作品の一部分になっているような気持ちにさせる。虚は見る者を誘い、彼の美的情緒を十二分に満たすためにそこにある。
知らなかった、柔術と芸術が並べられているとは!
十数年前グレイシー一族の日本襲来を思い出してしまった。
'FLOWERS'(p149)
However, let us not be too sentimental. Let us be less luxurious but more magnificent. Said Laotse: “Heaven and earth are pitiless.” Said Kobodaishi: “Flow, flow, flow, flow, the current of life is ever onward. Die, die, die, die, death comes to all.” Destruction faces us wherever we turn. Destruction below and above, destruction behind and before. Change is the only Eternal, ― why not as welcome Death as Life? They are but counterparts one of the other, ― The Night and Day of Brahma. Through the disintegration of the old, re-creation becomes possible. We have worshipped Death, the relentless goddess of mercy, under many different names. It was the shadow of the All-devouring that the Gheburs greeted in the fire. It is the icy purism of the sword-soul before which Shinto-Japan prostrates herself even to-day. The mystic fire consumes our weakness, the sacred sword cleaves the bondage of desire. From our ashes springs the phoenix of celestial hope, out of the freedom comes a higher realisation of manhood.桶谷訳(pp84-85)
しかしながら、あまり感傷的になるのはよそう。奢侈をいましめながらも、気宇を壮大にもとうではないか。老子は言った、「天と地は無慈悲である。」弘法大師は言った、「往く、往く、往く、往く、生命の潮流は停まることがない。逝く、逝く、逝く、逝く、死は万物におとずれる。」どこを向いても破壊に面とむかう。上を向いても下をみても破壊、前も後ろも破壊。変化こそ唯一の永遠なるものである。ならば、なにゆえに「死」を「生」と同じように歓迎しないのか。生と死はたがいの 片われにほかならず、梵天(ブラフマー)の「夜」と「昼」である。古いものの崩壊によって、再生が可能になる。
われわれは容赦ない慈悲の神「死」を、さまざまな多くの名のもとに崇拝している。拝火教徒が火の中に迎えたのは、「すべてを滅ぼすもの」の影であった。今日でも神道日本がその前にひれふすのは、剣の魂の氷のような純粋主義である。その神秘の火はわれわれの弱点を焼きほろぼし、その聖なる剣は欲望の奴隷を斬る。われわれの屍灰から天上の希望の不死鳥が翔び立ち、欲望から解き放たれた自由から、より人間らしさの自覚が生まれる。
「天と地は無慈悲である」は老子の言葉なのか。
ともかくも読後、レイモンド・スマリヤンの一冊を読みたくなってしまった。
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