「焔」第77号

福田美鈴さんの連載「吉田一穂さんのこと 2」を読んで、あたかも厳寒の外出先から帰って来て、暖炉の炎にあたったかのような気持ちになった(暖炉にあたった経験はないが)。
ずっと昔、亡父から聞かされた一穂先生のイメージそのままであった。

武蔵野の小さな書斎で、詩壇など語ることなく、弟子の地学者を相手に、地軸の歳差によって古の大地にひろがっていたであろう<古代緑地>と、その<桃源>への、生きるものたちの回帰/極への指向を考えた詩人は、福田さんご一家との晩餐で「歯医者ほど悪い奴はいない!」と言ったそうだ。その先に、ワっと食卓を湧かせる楽しい落ちがつづくのであるが、私が夢想して笑ってしまったのは、(時間を超えて)その場に、加藤郁乎と西東三鬼が同席しており、少々バツの悪い表情で「ええ、ですから私は廃業しました」と語る三鬼と、なんとか笑いをこらえている郁乎先生の表情である。まことに勝手な想像の風景......。

空になって久しい米櫃を前に息子とうたをうたう*。そんな「詩」そのもののような人を、彼と同じく、詩=人生としていた人々が扶けていたこと。これを特定の時代へのノスタルジーと見なしたくない気持ちがある。
おそらく現在もどこかで、同じような協働・扶助(詩に限らず)があるに違いなく、同じように何十年か後に懐旧談として人々に知られることになるかもしれない、ということだ。

ところで、amazonに注文していた本が届いていた。発注してから2週間を超えていたけど届いてよかった。

Dyonysius the Areopagite, The Mystical Theology and The Divine Names, Dover.
『神を観ることについて 他二篇』、クザーヌス、岩波文庫

偽ディオニシウスついては、どこかの紀要等をあたらなくては読めないものだと思い込んでいたが、廉価の英訳があった。すごいことだ。
クザーヌスはたまたま近所の本屋さんにはなく、送料サービスのこともあり、amazonで入手した。須く一般書店にならんでいるものはそこで買うべし、という料簡でいるが、今回は申し訳ありません。

追記:
今日(1/20)立ち読みした、長谷川郁夫『本の背表紙 』(河出書房新社)にて、白根に建てられた一穂石碑の由縁を教えられた。そして、*「VENDANGE」の引用があった。(ご子息たちの空腹を思うと、ほほえましさと悲しみが同時にやってくるとの由)

The Mystical Theology and The Divine Names

The Mystical Theology and The Divine Names


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本の背表紙

本の背表紙