五十嵐一『神秘主義のエクリチュール』(法蔵館)

たまたま図書館で目にした、五十嵐一神秘主義エクリチュール』(法蔵館)を読む。
予想とは違いたいへん読みやすい文章である。五十嵐氏が学部では数学科(東大)を卒業されていたことを初めて知った。
バブルの頃、TVにてイスラム問題についての時事的なコメントを求められていた姿をぼんやり覚えているが、この著作での、学界に対する辛口をも交えた筆致からは「少壮気鋭の比較思想家」という十文字が浮かんできた。

読者へ向けて幾度も、“オカルト・超能力、高級形而上学などには与さずに”と牽制する著者は、スフラワルディー、ルーミー、良寛、老・荘といった、東洋の叡智を代表するエクリチュールから「神秘」の要諦を掬い出すことを試みようとしている。

殊に、著者と同じく新潟(越後)出身者でもある良寛さんに対する思い入れが伝わってくる。水上勉の解釈にも批判的に触れているのだが、ここらへんに、アノ時代に対する挑発的な姿勢を読み取るのは過剰であろうか。本著刊行当時の'89年は、まだまだニューアカ的な雰囲気の濃厚な時代であったのだ。良寛さんと水上勉の取り合わせは、タートルネック着て「チベットモーツァルト」なんぞを抱えているような輩(実際に目撃したことはないけれど)にとって、たいへん興ざめな組合わせだったのではないかと想像する。ダ洒落で言うと、ニューアカの垢を落とそうとしていたのではないかとも思われるのである。

たとえば、我々はついつい「バッハが最高である」、「モーツァルトが最高である」、「なんたらが最高である」という状態に陥るものであるが、そんなときに、「何か忘れちゃいませんか」とそっと語りかけてくる何かがないだろうかと、こんな語り口を著者は繰り返すのである。

まあしかし、急いで読了したので「神秘主義」についてはなんだか何も頭に残っていないような気もするが、どうしても連想してしまうのは(「お前もその類か」と嗤われてしまうのだろうけれど)、ウィトゲンシュタイン『論考』の一節であった。ろくすっぽ勉強していない人間にかぎってヰトゲンを持ち出すんだよなあと、誰かが嘆息していたように記憶しているが、引用させていただきます(手元に翻訳がないので、オグデンの英訳をば)。

TRACTATUS LOGICO-PHILOSOPHICUS [6.44]

Not how the world is, is the mystical, but that it is.

ところで五十嵐氏の批判の矛先は、日夏耿之介と、五十嵐氏の師匠(井筒俊彦)の大師匠である西脇順三郎にも及んでおり、おそらく西脇の作品としては最も人口に膾炙する「天気」に対して、本歌取りならぬ“神秘主義的”一直の「霊気」を並置させるなど、かなり痛烈であった。この部分を引用するつもりがコピーせずに返却してしまったので、「天気」を引用させていただきます。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

うーむ。この詩に、「神秘主義者」の眼から見て、自らの博覧強記に足をすくわれた学匠詩人の限界が観ぜられるかあ。
私は乱暴者なので、キーツだの何ナノだのといった背景知識は、専門家に対するオマケのようなものとして殆ど無視なのだが。

別段、巨匠・西脇のフォローをするわけではないが、「西脇順三郎 天気」で検索したところ以下の興味深いPDFがダウンロードできた。
ホセア・ヒラタ氏による「西脇順三郎の詩と翻訳」によって、もっと積極的な何かを感得できるかもしれない。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bulletin/pdf/19hosea.pdf

四方田犬彦
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bulletin/pdf/19yomota-nishiwaki.pdf

神秘主義のエクリチュール

神秘主義のエクリチュール