池内たけし
私が愛唱し、愛読する俳句は、主に、西東三鬼を中心とした新興俳句、富澤赤黄男、高柳重信をめぐる現代俳人らの作品です。社会性俳句、前衛俳句、いや、もう本当に大好きです。神保町のBでそれらの作品が積まれているのを見たときは、ほんと、宝の山に映りましたね。もちろん自分の財布では数冊が限度でしたが。
なので、ある人に池内たけしが好きなことを告げた時、「一体どうしちゃったんだ?」と笑われてしまいました。
どうしちゃったんだと言われても自分でもよく分からないのです。桑原センセみたいなひとに、たとえば「ホトトギス」同人の数百の句をごちゃまぜにして、その中から池内たけしの作品を見抜けるのか?あるいは、たけし作品にひとに見抜いてもらえる個性が備わっていると明言できるのか?と問われたら「私の力ではそれをクリアに述べる自信ないです」と答えましょう。
しかし、重要なのは、折に触れて句集を広げたくなる俳人の一人であるということです。この気持ちは極自然なものなので否定しようがありません。
ということで、好きな池内たけしの句を紹介させていただきます。
日暮れたる女賀客に灯しけり
俳句會雛のあられの出されたり
菱餠のその色さへも鄙びたり
吹きそめし東風の障子を開きけり
仰向きに椿の下を通りけり
逗留や五月人形飾らるゝ
すかし見て鵜篝もゆる團扇かな
わが宿の玄関先きが涼しけれ
枯蘆の中へゝと道のあり
牡蠣船に居て大阪に來てゐたり
炭斗に炭を出したるばかりなり
三人の一人こけたり鎌鼬
類燒をのがれし家や商へり
玉垣にもたれ立ちけり暦賣
大原の小學校も冬休
門松を立てに来てゐる男かな
一枚の簾を吊って住みつきし
どれも一切無駄なく平明で、まさに、おじの虚子が評するとおり、「平淡にして滋味あり」ですね。
でも正直、果たして俳句として独立したものなのか、仲間内との歌仙から抜いてきたものでないか、と思いたくなるものもあります。
たとえば、大原の小學校も冬休 。まるで標語じゃないかしら。「大原」は京都の大原だろうか。もしかすると、東京城南の大原ではないのか、いや、愛媛にも大原があるかもしれない……と迷うところでもあります。それに「大原」の上五は、「葛飾」「世田谷」「枚方」「蒲原」なんでもいいようにも思えます。もしくは、何らかの背景知識が備わってこそ分かる句なのかもしれません。だとすると伝統俳諧の古老たちに「勉強が足りない」とお叱りを受けそうです。
しかし、これを私が好きになったのは、他の句と並んであったからこそだと思います。
(贔屓の引き倒しになるかも知れませんが)たけし句の魅力は、典型的な「花鳥諷詠」「写生」句であるのにくわえて、うっすらと物語性を感じさせるところにあると考えてます。それが意図されたかどうかは知りません。私の深読み・誤読なのかも知れません。でも一句だけではわかりずらいけど、全体を通してみると、各々の句に微かな物語性が備わっていることが感じられるのです。
高野素十のカメラ・アイとは逆に、一見スタティックな写生句でありながら、物語性=「時間」の広がりが密かに内在されている、それこそが「滋味」を感させる所以であり、現代俳句や前衛俳句一辺倒の私にとっても忘れられない魅力を有しているのだと思います。
あと、もしかすると、たけしが能を学んだ俳人であることにも関係してるのかなあとも感じます。だとすると、松本たかしとの対比も必要になってくるのか……。
勉強不足なのでここまでです。