『眠狂四郎虚無日誌』(新潮文庫)

p.18

「さっても、時はいつなんめり、天延四年春なかば、渡辺綱は上意にて、さしかかったる一条堀川戻橋――」
立川談亭は、高座で、張り扇で読み台を叩いておいて、夏羽織を脱ぎすて、
「月もおぼろの七つ刻、アレ鐘が鳴る、犬が啼く、いま鳴る鐘は、初夜の鐘――。渡辺綱は、足停めて、小手をかざして、はてこは如何に、そこにたたずむ女人の影は、人目を忍ぶ紅梅打着、伴もつれずに、しょんぼりと、待っていたかと、手と手をからめ――アレ主さま、雨が、と見交わす顔を蛇の目にかくし、濡れぬようにと濡れに行く。いい風情だねえ。左褄を、こう、取って、明石からほのぼのと透く緋縮緬――湯もじの蔭から白い脛が、ちらりとのぞいてのう」