『タンポポ』伊丹十三(1985年)

昨年末の深夜、突如ラーメンが食べたくなったので外出しようかと思うたが寒風が強く直ぐにあきらめ、ここはひとつ“画餅”ならぬ“画ラーメン”で我慢するかと、押入れから伊丹十三監督『タンポポ』(VHS:隣町のレンタルビデオ店で105円で放出されていた)をひっぱりだして久しぶりに鑑賞した。

これまでTV放映を含めて2度ほど観ていたかと記憶しているが、随所において配されるちょっとナンセンスな幕間劇風エピソード(物理時間にして計30分程度)が、少々鼻につく印象があったので、今回はどのように感ずるだろうかとできるだけ虚心坦懐に画面をみつめた次第である。以下はそのとりとめのない感想のメモ書き。

  • 本作品は監督あるいは製作サイドにより(マカロニエスタンをもじったものなのか)「ラーメンウェスタン」と銘打たれたようだが、メーンストーリー枠内でのテンションはあくまでもお茶の間ドラマ風であって、本格的な仇役も登場せず、せいぜい言って「ウエスタンショー」のノリである。その代わりというべきか、ひとが交合ったり死んだり殺されたりする密度の濃いシーンをナンセンスコメディタッチの幕間劇(のいくつか)が担う構成となっていて、このあたりに妙味というか斬新さがあるのかも知れないと感ずる。
  • そもそもこの映画はその幕間劇諸エピソードに複数回現れることになるアウトロー風の男(役所広司)がキネマの客席から私たちに向ってメタフィクションの体で語りかけることから始まる。そこでの彼は一種狂言回しのようなムードを漂わせているが、終盤、あくまでも幕間劇エピソード内の役柄として画面から消えていくことになり、情婦に抱きかかえられた彼が眼窩に雨滴をためながら絶命するシーンはコメディタッチとはいえひとつのクライマックスをなしている。そのことが彼の存在に一寸不思議なというか、有体にいえばどこか曖昧な印象を抱かされる。
  • 本を読んでいる渡辺謙をその本のなかにヴァーチャルに登場させるのは、雨夜を走るトラック車内の寂しさと絶妙な対を為しておりイイ感じがした。
  • 日常覆われている人間の欲求・欲望・業のようなものを風刺せんとするには、その風刺自体がスノビズムに陥ることを回避する必要があるだろう。いや陥ってももいいのだろうけどその場合はそれなりの手妻が必要となるだろう。もしかすると伊丹監督はその点に少々スキがあるのではなかろうかと感ずる。その匂いをもっとも強く嗅いだのは最後のさいご、エンドロールで若い母親が赤子に授乳しているシーンであった。このラストにより、本作は生命の根源としての<母=女=妻(宮本信子)>への礼賛が通奏低音をなしているとも読み取れる気がしたのだけれど、果たしてそのように解釈させられた瞬間、作者のスノッブな所作がまるごと剥きだしになるかのような――いまふうの言葉でいえば「ドヤ顔」が垣間見えてしまうかのような錯覚(?)に捉われてしまった。
  • しかるにあれほど才能があるひとが自身の感覚に対してそこまで鈍感だとは考えにくい。じっさいのところ、夙に米国の映画批評家ポーリン・ケイル氏は伊丹のユーモアを「繊細な痴呆感覚」(delicate sense of fatuity)として素直に賞賛しており、ざっとネットで検索してみても英米の批評子によって好意的に受けとめられていることが分かる(たとえばコレとかコレ)。わたしは穿ち過ぎなのだろうか。
  • ここでポーリン・ケイル氏の「繊細な痴呆感覚」というタグ付けを拝借すれば、加藤嘉とのしばしの別れに際して浮浪者集団が「仰げば尊し」を美しく合唱するのを主人公たちが微笑みをもって見守るシーンこそが相応しかろうかと思う。もしかすると『二十四の瞳』(木下恵介監督)からの引用なのかもしれないが、たとえそうであったにせよ、じつにヘンなシーンではなかろうか。ケイル氏はこのシーンに触れ、そのままカレンダーにでもなりそうなショットだと述べている。
  • 蓮実大先生がクリント・イーストウッド監督『グラントリノ』を「シャツ」と「ベルト」の映画だと仰ったのを猿真似て『タンポポ』は「帽子」の映画だと衒学気味に宣言したい気もするが、格好つけずに言えば衣裳としての帽子の使い方が画面を引き締め、かつ、ストーリーにアクセントをもたらしているという“映画製作入門”程度のことに今更ながら気づいたというわけである。
    たとえば、序盤で厄介な存在だった安岡力也の帽子の場合、彼が主人公の仲間に加わってからは、ハンチングが中折れ帽に(さりげなく)変っていたりとか……。その意味で、主人公の協力者・大滝秀治が始終無帽でいたことが惜しまれる。
  • 念のため伊丹十三の人間像について検索していたら、内田樹先生が伊丹について(口を極めて)絶賛されているテキストに出くわした。恐らくわたしは伊丹の謂わば啓蒙家然としたたたずまいがイマイチ趣味に合わないのに違いないのだが、何か先入観が邪魔をしているのかもしれぬので、そもそもどんな人物だったのか俯瞰できるものはないかと探してみたら 『伊丹十三の本』(新潮社)というムックが図書館にあったので勿怪の幸いとばかり借りてみた。頁をひらくといきなり帽子についてのエッセイ「帽子はひとつの旅である」が引用されている(p.58)ので吃驚した。

(…)ところが帽子の世界っていうのはこれとまるで違う。帽子って、まず外の世界だよね。/他人と対決したりせめぎあったりする世界、/従ってルールや規律やプリンシプルが支配する世界でしょ?/(以下略)

  • そうなるとやはり、大滝秀治はヒロイン(宮本信子)にとっての大切な恩人ではあるが、“他人と対決したりせめぎあったり”はせぬ隠居風の存在であるがゆえに無帽ということになるのだろうか。であるのならば本朝の伝統に従って宗匠帽、あるいは、焙烙頭巾なんぞを着帽させるべきではなかったかと感ずるのだが……。
  • 後日『タンポポ』の次作『マルサの女』を観なおしてみたら、病床の金持ち爺さんが看護婦の乳を赤ん坊のように吸っているシーンから始まっていた――このことは全く記憶に残っていなかった。そして伊丹の遺作『マルタイの女』では、いままさにテロのために出立せんとするカルト教団の青年が別れの挨拶に恋人の乳を吸うシーンがあった。

タンポポ<Blu-ray>

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今夜も映画で眠れない ポーリン・ケイル集 (アメリカ・コラムニスト全集)

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伊丹十三の本

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