Ars longa vita brevis

都内のスーパー高校生が、ポーランドの「高校生 物理論文コンテスト」で見事に賞をかちとったニュースを読んだ際、そこに見覚えのある姓名を拝見したので、もしやと思って検索したら、高校時代に物理を教わったK先生でした。先生は当時(1983年)も教科書を一切使用せず、ガリを切ったプリントだけで指導されていましたね。

パンクやHM/HRに浸潤された残念脳のオレだったので、殆ど授業内容の記憶がないのですが、総合評価で4.5/5をもらったことだけはちゃっかり覚えています(授業だけ聴いていれば満点とれるレベルの学校での話です)。ただ、「マイケルソン・モーリーの実験」については、当時いたく感動したことは確かです。
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これに機を得て、記憶のかたすみにあった諸先生を検索してみました。

まず、中学校一年のときに「理科第?分野」を教わったK先生です。
区のプラネタリウム等でお仕事をされている事は存じ上げてましたが、いまでもお元気な様子で嬉しく思いました。個人的なかかわりはゼロだし、クラス活動での思い出も皆無なのですが、ずっと脳裏に焼きついているのは、手を焼かせる悪童たちでも先生の一喝を受けると途端にシーンとなるという、居合の術でも用いてゐたかのやうなオウラです。

と同時にたとえば、「一秒間に地表にふりそそぐ太陽の熱を学校の満水プールに集中した場合、一体何秒で蒸発するか」を計算して、コンマ以下ゼロを延々と黒板に書き連ねていく先生の、そこはかとなくユーモラスなムードですね。19世紀20世紀初頭にハレー彗星が地球に再接近した際、ヨーロッパの金持ちのなかには人類滅亡を信じて全財産を「どんちゃん騒ぎ!」で蕩尽してしまったという逸話を、とても嬉しそうに紹介されたことも懐かしく思い出されます。友人のU君と僕は『どんちゃん騒ぎ!』という言い回しにはまって、よく真似てました。

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中学校三年時の担任だったN先生については、たまたま先生の文章が掲載されているWEBページで、五年前に御子息を亡くされたことを知って、たいへん悲しい気持ちになりました。

高校時代の担任Tに対してはずっとネガティブな感情を抱いていましたが、ある方がブログで人生の恩師として感謝している(らしい)文章を読んでちょっと考えさせられました。

教師といっても受け持つ世代との相性はあるだろうし、(教師自身の)人間としての成熟段階や、家庭の事情、組織内での立場、お上からの指令などから、周囲に与える印象や指導方法が時代によって相違するのは当然なのでしょう。付き合わされた三年間のイメージはあくまでも、オレが、もしくは、オレ達が抱く印象に過ぎないわけです。

といっても、乃公を理不尽に鉄拳制裁した教師には、いまでも「先公」、「あいつ」、「あのキチガイ」etcという蔑称を使わざるを得ない気持ち「では」あります。そう、『秋刀魚の味』でいい味出している、中村伸郎の屈託のように......。

ただ、「では」と留保が付くのは、確かに、動物的な餓鬼相手に、鉄拳や大きな定規等をいわば刀狩された状態で指導するというのは、「そりゃ無理だわなぁ」という同情が加味されているから「では」あります。ここに「では」という留保が付くのは......以下省略にします。