渡辺哲夫『〈わたし〉という危機 問いの再生1』(平凡社)


かのモラリスト「太陽も死もじっと見つめることはできない」という箴言があるが、著者が長年対峙してきた重篤のスキゾフレニー患者は、文字通り、太陽と死をじっと見つめる狂気のうちにあった。
この著作は、既著『死と狂気』(筑摩書房)でとりあげた「夏雄」(本著では「A」)の症例(=彼の生き地獄)を、彼の言葉とふるまいによって出来する混迷の森の深奥へ能う限りまで分け入って分析・解釈した書である。

その類稀な個性に魅了せざるを得ない夏雄=Aについては、だいぶ前に、小説家・俳人倉阪鬼一郎さんのHPで知り、すぐさま『死と狂気』を図書館で借りて読了した。ほどなくして、本著が出版されたので、これもすぐさま図書館で借りて読了した。そして先週、思うところがあり再読した。

本当は、夏雄=Aの言葉やふるまいの記述に覚えた様々な(文学的)感興をここで勝手に紹介したいなどと考えたのだけれど、米国で隆盛した生物学的精神医学と大陸発祥の精神病理学との相克について私はまったくの素人であり、本著の存在意義及び位置づけ等について何も語ることができないどころか一知半解の頓珍漢な駄文を呈しかねないので、下記を引用させていただくにとどめたい。

pp63〜64

「オレ」には他人の同一性が認識できない。一見すると無限に複数化してゆく他人の同一性は支離滅裂に分解してしまっている。プトレマイオス的世界として強固に構成され生きられる「オレ」の世界は、「宇宙」の中心に堂々と存在する巨大な「地球」でも大いなる大地でもある反面、同一性を欠いて生死不明の相貌を帯びた奇妙な「透明人間、死人」が群れをなして跳梁しつつ「オレ」を包囲する「生き地獄」である。「オレ」が「地球」を嫌悪し、これを離脱して「宇宙」への帰還を切望しているひとつの理由は、他人としての<他者>のグロテスクな同一性崩壊、持続する個的「生命」性の寸断と破壊・消滅の感覚であると思われる。
 だが、他人の同一性崩壊という一事で「オレ」の世界の特質が見出されたといえるのであろうか? それだけではない。そもそも、他人の同一性崩壊という理解の仕方自体が果たして正しいのだろうか? 自問自答のなかで私は、どちらの問に対しても否と答えざるを得ない。
 まず、事実として、他人の同一性は知覚的、感覚的には保たれているといわなければならない。「顔は同じだけれど......」、「顔はそっくりなのが......」と言われるように、「オレ」は他人の見え姿が同じである、あるいは酷似しているのを肯定している。それゆえ、「オレ」の世界における他人の同一性崩壊の理由は、知覚あるいは感覚の次元だけでは語りえない。他人の知覚的同一性と別次元にあってその知覚的同一性の成立を可能にし、それ自体は知覚的・感覚的ではない何らかの持続的同一性の根拠の存在とその変質あるいは不在が問われなければならない、との予想がすでにして成り立つだろう。
「オレ」の証言からも明らかだが、他人の同一性を言わば内側から変質させているのは、他人の知覚的現前とその知覚的不在の交代という、人間には避けようのない事態である。そして知覚的(再)現前とのあいだにある時間的かつ空間的空白、すなわち知覚的不在としての、時空的空白における他人は、「オレ」にとっていかなる存在性格を有しているのか?

 ひとつのエピソードが思い出される。Aと私が病院の廊下で立ち話をしていたときのことである。比較的小柄な女性職員のH氏がAと私のそばを通って約五メートル先の病室に入って行った。このときAは突如血相を変えて「あっ! 消えた!」と叫び、H氏がすぐに病室から廊下に出てくると、彼はH氏に向かって猛然と突進してゆき、小柄なH氏のからだをつかみ上げ、そっとやさしく廊下の床に下ろした。「Hさん! 大丈夫? Hさん、宇宙人だね! ボクにはあんな真似はできないよ。Hさん、この世の人間だと思うけど......。」と言ったのである(...)H氏はわけも分からぬまま逃げるように廊下を小走りに去って行ったが、Aには驚きと不安の入り混じった表情で「生命は不思議だ、わからない、わからない......」と私の前でつぶやいていた。

このグロテスクな光景は、いまだに忘れることが出来ない、かつて幼児期にあった私が見た悪夢(の傾向)を思い起こさせる。
それは、背後から誰かに呼ばれて振り返ると家族全員が、それこそ私自身が描いていたような稚拙なクレヨン画に変貌しているというものであったり、視野の端では普段どおりなのに正面から見据える各々の人間がそのまま等身大の真っ白な紙細工に変化してしまうというものだったり、誰かにつれられて電車に乗って遠出すると、影絵の世界に入り混んでしまうというものであった。(いま思い出した! 相貌にはまったく変わりがない母親が、じつは母親ではなく、本当の母親は死んでしまったことを、そのそっくりさんから告げられる、というのもあった。)

しかし、なかんずく観念連合させられたのは、デイヴィド・ヒューム『人性論』第一篇の結論である。

『人性論』(二)、大槻訳、岩波文庫、p124;原文はここ、8パラ〜9パラ参照

(...)上述のような人知の多種な矛盾と不完全とを強烈に視せつけられて、私の心は痛く動かされ、私の頭腦は熱してしまった。そしてそのた、私は、あらゆる信念及び推理を即座に斥けようとし、どんな説も[絶對確實と認めないだけでなく]蓋然度ないし見込みに於いて他の説より優るとすら思うことができなくなったのである。私は何處に居るか。また何か。私の存在の由って來る原因は何か。そして將來はどんな状態に帰るのか。誰の歡心を買おうとするのか。また、誰の忿怒に怯えなければならないのか。私を圍繞するものは何か。そして誰に多少とも影響を及ぼすのか。また、誰から多少とも影響を受けるのか。すべてこうした疑問は私を狼狽させる。そして私は、私自身が、想像できる限りの憫れむべき状態に在って、烏羽玉の暗闇に包まれ、全身及び全機能の自由を全く奪われている、と空想し始める。
 しかし、この上もなく幸運なことには、理知がこうした迷いの雲を吹き晴れし得ないとき、[人性の]自然それ自身が十分にこの目的を果たしてくれる。即ち、上記の[悲惨な]心的趨勢が、[獨りでに]弛むか、さもなければ感官が他に何らかの気晴らしを求め、生気ある印象を得て、一切のこうした妄想を抹殺するか、そのいずれかによって、この私を悩ます哲學的憂鬱及び精神錯亂は自然に治癒されるのである。私は食事を執り、雙六を遊び、友人と座談を交えて打ち興ずる。そして、三・四時間の娯樂ののち先の思辨に帰ろうとすれば、その時それらの思辨は甚だ冷か・無理・滑稽に見えて、再び深入りする心にはなり得ないのである。


ヒュームが夏雄=Aに出会っていたらどうであったろうか。
(天才だけに)一気に「脳」に辿り着いたり......。