それはそもそも誰の言葉ですか

土曜日の午後に目が覚めた瞬間、元気がなく少々鬱気味であることに気づき、ひねもす引き籠りとなる予兆がしたので、夕方近くになって寝床の布団の呪縛を解き放つかのように神保町へ向かう。
田村書店のゾッキ棚で一冊購入。

P.クロソウスキー『かくも不吉な欲望』(現代思潮社) 200円

無茶苦茶晦渋な文体のイメージがあり、「玄人好きー」と(多分)駄洒落で呼ばれることもある、P.クロソウスキーですが、パラパラ立ち読みしたところ、少なくとも表面的には明快な文章なのでびっくりしました。なので買いました。ゾッキ値だし。なんか、(はんちくな)孫引きの役に立ちそうであるし。

孫引きといえば、あるひとに、「“われわれにはいくつもの自己がある”と云った哲学者って誰ですか?」と訊かれ、それってどこで知ったのかと問い返すと、「たしか横尾忠則さんです」とのことなので、あー、もしかするとR.シュタイナーあたりじゃないかしらと答えると、「いえちがいます」、とキッパリ否定され、吾らが横尾さんの引用となると、ニューエイジ思想周辺かもしれないので、じゃあ分かんないやと全く答えになっていない返答をしたのだが、果たして翌日、彼女が確認したところそれはグルジェフの言葉らしいのであった。

しかし、“われわれにはいくつもの自己がある”のような意味を語ったひとって数ダースどころじゃない気がするけれども、実際のところってどうなのだろう。

個人の意識は、ほんの一瞬、想像的に存在するだけであるので、それが名づけられている名前のなかにすぐさま失われてしまう。言語と結びついて、「意識は言語だけが表面にあらわれるあいだに言語のなかに沈潜することを役割としている。」介在物がないと自分で自分をみつめることができないので、意識は(意識そのものではない)感情にすぎないか、またはその感情につけられた名前にすぎず、こうして意識は言語へ移入される。そのとき生まれてくる無限は、言葉の無限である。


そして上記であるが、じつは、P.クロソウスキーの上掲本にあったものである(P193)。


Balthus

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