縦書きか、横書きか。

/.jpでこの記事を読む。そして、森博嗣氏の日記を読む。昨日のエントリで、みすず書房のヨコフォントについて触れたばかりなので、軽いシンクロ感。

私は、「左手日記例言」の感想をちょっと記したとおり、左利きなので、横書きはありがたくなく、鉛筆、万年筆使用時は、随分と不自由することがある。特に、仕事で鉛筆記入の要がある時は、用紙を汚さぬよう神経を使わないといけないので、その量が多い場合、とても鬱になる。それに、縦書きノートのヴァリエーションが少ないことも不満だ。和文書籍はタテ印刷なのに、個人が能記するノート類はヨコ罫中心という慣習にずうっと不満である。俳句を記すのにもっぱら、極東ノート株式会社KT10T.10mmタテ罫(75g/m^2)を愛用しているのだが、いつ、生産中止になるのかも心配の種となっている。

しかし、パソコンがこれほどまで普及すると、縦書きの利便性が分かりにくくなるのも道理かもしれない。ここでひとつ、縦書きの利点を再考してみよう。

<書く利点>

  1. 日本語は、漢字も仮名も、縦書きのほうが書きやすい形になっている。速記しなくてはならないとき痛感するが、行書・草書的に流れるように記述できるのはタテ方向。だからこそ、縦書き用の掌中サイズノートが欲しい。でなければ、無地をもっと普及してくれ。
  2. 左利きにとって手が汚れにくい。
  3. 左利きにとって、書き進めながらそれまで書いた分を横目で確認しやすい。
  4. 文章校正がやり易い。線を引くのはタテの方がラク。少なくとも私は。
  5. 経験上、縦書きの方が鉛筆・シャーペンの芯が折れにくいかも。

<読みでの利点>

  1. 左利きにとって、製本されたものを片手(左手)で読む場合、右綴(縦書き)の方が圧倒的にラク。ノンブルにしたがってページを開いていくことができる。
  2. 横書き無線綴の場合、マージン(余白)を十分とらないと、全行にわたって、偶数ページの末、奇数ページの頭が読みにくくなる。
  3. そうでなくとも、通勤電車内など、書籍を十分開けないスペースにいる場合、縦書きの方が(末行、先頭行は読みにくくなるものの)フラストレーションの度合いは低い。もちろん、厳密な読みが要請される書物はこの限りではないが、そうしたものはできるだけ机上等で読むべきだ。
  4. 新書・文庫本のような小さい媒体に適している。同ポイントフォントで比較すると、横書きは忙しい改行となるハズ。
  5. ということは、読誦する際、版型・フォントサイズ・分量が同じ文章ならば、横書きよりも縦書きの方がぺースを保てやすそうだ。

きっとまだまだあると思うがさしあたりこれくらいだろうか。

しかし縦書きの正当性って利便性によってではなく、理論的・観念的に考察した方が楽しそうである。その視点で、書家・石川九揚先生がどこかで論じておられたはずだが、ちょっと失念。

では、俳句ファンとしてはどう考えるか。それはもう間違いなく日本語俳句は縦書きがいい、ということだ。考えた結果というよりほとんど生理的なものだが、たとえば、決して偏見や固定観念を持ってして「ヘップバーン」をとらえたくなかったけれど、あの横書きは全くなじめないものだった。また、WEBのおかげで、俳句をヨコにして読むことが多くなったが、いまだに違和感を拭い切れないでいることを重視したい。'98年ごろから俳句をWEBで閲覧するようになったので、もう9年目ということになるけど、これだけ経っても違和感が強いのは、少なくとも私は、ヨコ書き俳句に馴染まなくてもいいということだと受け止めている(ヨコはWEBだけにしてということ)。

もしその考えが一般化できるのであれば、俳句は決して「自然」から切り離されないという証左なのかも知れない。桜花は空から降りってくる。雨も雪も霙も霰も(以下略)。滝は(上から下に)落ちるものだ。山河も左右ではなく上下が基本概念であろう。ビルディングも同様。でも、個人的にもっとも与したいのは、俳句は超越的な視点(存在)を措定しているという立場で、上から下へ、そして下から上へとイメージが往還する経路を開くものが俳句だというテーゼを支持したい。特に、先日卒読した、夏石番矢氏の加藤郁乎論にふれてその思いを強くした。

ただそうなると、「自然」は思いのほか我々との緊張関係を強いるのではなかろうか。逆説的だが、だからこそ有季定型の作品は難しいと言えるのかも知れず、ポスト有季定型(?)に立つ者の苛立ちは、あくまでもその点に無反省な花鳥諷詠的態度に対して向けられるのではないか、と、ひとまずここでは言っておこう。

とりあえずここまでです。おやすみなさい。