いまさら『世中愛叫』

忘れていた。昨年の話だが、『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んだ。
南天先生の前で、セカチュー類をああだこうだ言うからには一応読まないとイケンかもしれませんね、と口をすべらしたのがいけなかった。会うたびに、もう読んだか、読んでないならここに100円で売ってるぞ、などなど小ウルサイのである。

さて悲しいことに、なんであすこまでブレークしたのかいまいち分からなかった......。「死」「つかの間の蘇り」「再びの別離」が、映画『ゴースト』以降の売れるストーリー構造だということは気づいてはいたが、当作は高校時代の恋人との早すぎる死別に対するメモワールである。物語自体の力というより、もろもろの外部条件がマッチした結果なのではなかろうか。とにかく、小学館の編集者(営業?)の慧眼に敬服。

無理やり何かに気づいてやろうと読み進めた結果、あたりまえのことを再認識した。つまり「お国言葉」の標準語への変換である。物語中、方言とおぼしきものは殆ど登場しない。舞台となる地方都市の言葉の特徴は、もしかすると熟語表現にではなく訛り(イントネーション)にあるのかもしれないが、まあとにかく、物語が文語から話し言葉へ移行したのが約百年前だとすると、現代はそこからどこへ移行したのかについて自分があまり意識的でなかったことに気づかせてくれた。そして、言葉のローカリティを水際立った手腕で物語に導入し、かつ、遍く読者に独自のリズム感を受容せしめたのが、町田康/町蔵であることを......まあ誰もが、言ってる事ではあるが。

さらに一点。日本人としては大多数を占める東京人以外の人々にとっての書き言葉(標準語)がもつムードである。この物語は、すでに社会人となり故郷を離れた主人公がいま現在のフィアンセ?を伴って、早世した元恋人の骨粒を故園の校庭に散骨するシーンで終わるのだが、学校を卒業して他府県から東京圏に定住する人々にとっては、物語る主体=主人公が標準語で回想していることに対して東京人が持ち得ない情緒を抱くことになるのかもしれないことを思わせた。

そして時代設定であるが、レッド・ホット・チリペッパーズが主人公のお気に入りバンドとして登場しているので、レッチリが一般にその存在を強く知らしめた'90年代前半あたりが設定時であろうかと思われる。となると、どうもあの時代のムードとミスマッチな気がしてならない。地方都市進学高校の男女の話だから、風俗退廃する当時の東京とは違うぞと考えればいいだろうけど、自分には作者(1959年生?)の想像力の限界を感じてならなかった。恋愛(初恋)を純粋に描くならば時代の様相は無視できるという前提があるような気がするのだ。もちろんそんなこたぁ書き手の勝手ではある。実際、時代なんぞを書き込まずともミリオンセラーを達成したのだし。

であるけれども自分が嫌悪感を抱いた引っかかるのは、作者の青春像をインスタントに現代にあてはめて、今を生きる若者?へ訴求しちゃいましたという態度が見えること。単純に比較しても仕様がないかもしれないが、村上龍『69』のように、作者が高校生として生きた時代の青春像を提示することが、今を生きる若者に訴求するというのなら十分納得がいくのだ。一方、ひとまわりふたまわりも下の世代を周到に取材・リサーチして物語を構成する手並み、そうした作者が俄かに思い浮かばないのだが(桜井亜美とかそうなんスかね?)、それも凄いことなのだろうと思う。

結論。

出版というのは恐ろしい。なにが当たるのかホント分からない。wikiぺディアでは、「売れただけ」の作品と目されていることを示唆しているが、こういう物語が「売れる」時代にあるということの意味がまだ理解されていないのではないかと感ずる。どこかで小学館担当者へのインタヴュー記事を読んだが、「紙」を変えたことも大成功の要因だったそうだ。名称をメモするのを忘れたが、束が目立たない紙なんだそうである。その紙を使用することによって小説を読む習慣のない若年層が「私にも読みきれるかも」と思わせしめることに成功したんだそうだ。これにはほんとうに感心した。

ところで、本読みを自認する者らはこのようなライトノヴェルの浅薄さを批判するようだが、学者を目指して勉強している人間ほど非高偏差値大学をバカにしないのと同じく(なぜなら彼らの就職先となる可能性が高い)、歴史を通じて価値を保持するであろう本を愛でる人間は、闇雲にベストセラー小説を批判してはならないと思う(笑)。時代の仇花であろうと、その収益が、初版1,000部のマイナー書籍の発行を可能とするのだから。まあ、大出版社に於いてではありますけれど。

『誰が本を殺すのか』の佐野眞一氏は、雑誌「ダヴィンチ」に何かもの申したい気配であったが、「ダヴィンチ」を読んで小説やエッセイ本の購入者が増えるのだとしたら、やはり慶賀すべきことではないかと思います。