相手の前提を、相手の立場を顧慮しないという蛮野

短い期間エコに関わる仕事をしていた。所謂「エコ」が経済活性化のために提案された無視することのできない新手であることは理解できるが、なんとはなしに虚しい印象を抱いてしまうことも確かだ。

向後はエネルギー政策における原発重視のアピール戦略がじわじわ再開されていくのかもしれず、それに対抗すべく、ふたたび反原発運動の狼煙があがるのかもしれない。もしそうなれば、世界的に低炭素エネルギーへの転換が唱導されている状況をふまえた上での、広く、国際政治・経済・産業に目配せした議題設定と議論展開が要請されることになり、昭和末期において列島で沸き起こった原発論争ブーム以上に熱をおびたイシューとなるのかもしれない。

あれから20年以上の月日が過ぎたことになる。丁度その当時携わっていた学生Debate界では環境保護が通年の命題(Proposition)に指定され、肯定側に立った際に提出するプランとして多くのチームが原発推進廃止(中止)を選択しており、わがチームもその流行に倣っていた。ところが、まさにシーズンが始まる間際になって、同期の仲間のひとりが辞めたいと申し出てきたのだ。

あの頃はあぶく経済期に当たっていて大学生は四年間存分に生活を充実させる(「遊び」とは限らない。あくまでも充実≒エンジョイする)ことを大切にしていた時代であった(と私の主観では思う)。

私が在籍していたボロ大学では休日返上で知的活動に邁進せむとする学生が寡少であり、とくにわれらがスクワッドは、練習試合まで・大会まであと何日かを常に計算しながら、どこまでリサーチを進捗させられるか、必要なエビデンスを補充でき得るのかといった精神的圧迫状態が恒常化していたので、そんな、日々疲弊した姿を晒さざるを得なくなる業界に参入しようと思う学生は極めて少数派であったのだ。

かようなる事情だったので辞めたいと申し出た彼には翻意を促した。しかし、その理由というのが、もともと彼自身が反原発の主張を持つ人間であるのにゲームとはいえ原発推進中止(肯定側)の反対の立場(否定側)になることは心理的に抵抗感があるというのであったのだ。感情として無理だというのである。

これには正直どう対処して良いものか分からなかった。

  1. 自分の主義主張を支えるためには反対意見を詳細に検討し、自分の論拠を固めるためにさらなる要件を洗い出す作業が要請されるのは当然ではないのか?
  2. 「反対側に立つ」というのは(1.であるところの)検証作業にほかならないわけであって、たとえ、各スクワッドの成果すなわち勝敗の傾向によって当該プラン採択の望ましさが低いものであることが浮き彫りとされることになっても、そのときは全廃ではなく限定された条件下での廃止を盛り込んだプランの可能性を探るステージへと移行すべきであることが“全体”によって示されたのだ、と理解すればいいのではないか?

と諭したところで、それは理屈ではわかるが感情的に受け入れられないと返されれば、最早どうしようもない。

いまになって思えば、感情に訴えれば説得される余地がなくなることを見越したうえでの理由付けだったのかもしれない。いずれにせよ頑なに感情を持ち出された場合、事態を好転させるのは非常に難しく、これは学生であろうと社会人であろうと変わりはない(「感情には感情を」という手練れな戦略もあるだろうが「好転」に結びつくとは限らない)。

さて、忘却の彼方にあったはずのこの小さな出来事をいまさら持ち出して何が言いたいのかというと;議論に於いて発言者の感情的側面があらわになるのは知的な活動への志向度合いが低い集団での傾向だと半ば卑下して思い込んでいたのだが、インターネットの登場以降、十分知的であろう人たちでも、それどころかアカデミズムの世界のひとたちであっても、負の感情をあらわにすることが決してめづらしくはないことを目にするにつけて嘆息を禁じえない、ということだ。

なかでも相手の文脈や前提を無視する、あるいは、>を使用して持論に都合よく相手の論をねじ曲げていく手法(cf.藁人形論法)は極めて悪質に感ずる(もしかすると、意図的ではなく、結果としてそうなっていくケースの方が多いのかもしれないが、いずれにせよ私が信頼しているブロガーさんetcは、>の使用に対して禁欲的だ)。

アカデミックスタイルのなかでも極北とされるNDTディベートは、あたえられた時間内に最大限の情報をつぎ込むことが必須なので自然と基地外じみた早口(Supersonic brief readingと揶揄された)で議論が交わされることになり、文体(話法)は詳細にナンバリングが施され論理的に分岐しているので外部のひとたちへは滑稽なくらい無味乾燥・非人間的な印象を与えていたようだが、論者の個人的な感情の介入を一切排除し、エビデンスの信頼性と論拠の堅固さ等で採択の望ましさをはかり、ときには(というより毎度)命題の解釈、解釈方法、採択基準のパラダイム自体をも論題化することが許容され得るスタイルであったので、知的ゲームとして極めてクールで類のない魅力に輝いていた。

とはいえ、上位チームにとって私などは全く歯牙にもかけない存在であり、完全に無名であり、チーム内部においても辛い思い出ばかりで、あのコミュニティを称揚する義理も任務もないのだが、学校を出てから当時の経験が非常に役に立っていることを実感していることに嘘偽りはない。私にとって貴重なリベラル・アーツだったのだなあと思う。

インターネットの民間利用が始まって久しいが、当コミュニティへの参加者は当時と較べて大幅に減少していることを仄聞した。残念というより、Debateという言葉が広まっている現在一体どうしたんだろうという気持ちでいっぱいだ。リサーチのコストも当時と比較すれば格段に低いだろうに......。やはり、もっと人間的な(感情の介入が確保される)コミュニケーションが求められていることの証左なのだろうか。

まあ、なんというか、極めて低い確率でこのブログを訪問しここまで読んでくれた大学新入生で、かつ、キャンパス内のどこにも行き場がなくて鬱だ〜というひとは、GWあけにでも学生Debateの世界をのぞいてみてはどうでしょう。大会の見学をするのもいいかもしれない。

いやいやいや、全くいまさら、目に見えない相手に新勧活動してどうなるというのだ>私

ちなみにですが、当コミュニティの運営に尽力した人、あるいは、活動に携わったひとたちには以下のように極めて個性的な面々もおられます。非凡な友人をつくる、あるいは、非凡な人間に変身できるチャンスかもしれません(あくまでも「かもしれません」です)。

Dr.トマ(山師トマではない)

アイボを開発した博士

シンクタンクのスーパーリーマンさん(推測)

あーいえば......


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