阿部青鞋

先日、BOで入手した『火門私抄 阿部青鞋集』岡山県俳人百句抄5を再読。

青鞋の句集はなかなか入手し難いものなので大変うれしかったですね。以下は読後の印象です。

まず、やはり、永田耕衣との連関が頭をよぎります。たとへば禅味です。

手のひらをしたへ向ければわが下あり

親ゆびをおさえてあそぶゆびを見る

なか指にしばらく水を飲ませけり

手の腹はまだよく知らぬところかな

ここで、
「てのひらというばけものや天の川」−耕衣
を思い出した方も少なくないでしょう。
そして、

大きくて二匹のごときかたたつむり

これには、
「 かたつむりつるめば肉の食い入るや」−耕衣 
が呼び起こされますよね。もちろん、同想にあらずですが。

つぎに、

柱頭がしづかに狂ふ美術館

立てておく燃え崩れむとする琴を

この二句には、時間の流れの中に、ある臨界点が浮上する様をとらえた妙味を感じます。そして、「柱頭」「狂」「美術館」/「立」「燃」「崩」「琴」と、漢字の措辞にも審美的なものを感じます。永田耕衣は<衰退のエネルギー>を唱えましたが、青鞋は、存在一般が終点に向かうことにユーモアを見出しているかのようにも見えます。それは黒いものでなく、透明な感じです。

つぎの軽妙なみたての秀逸さ!「皮膚」という極物質的な語がサーカスの天幕を想起させます。サーカスが終演して天幕がかたずけられるまでにもイメージがおよびました。

わが皮膚はわがサーカスを覆いをり

そして、

寒鮒のどれこれとなく血がにじむ

写生としても秀逸ですが、寒鮒は死のイメージとつながることが多いようです。
たとへば、
「寒鮒の死にてぞ臭く匂ひけり」−耕衣
または、
「寒鮒黒し金魚昇天したるあと」−西東三鬼

一方、寒鯉は静かな勁い生命力を感じさせます。

寒鯉の胴に寒鯉鼻を当て

青鞋の句はとてもシンプルで、子供達にも分かりやすいと思います。老若男女を問わず開かれた世界がありますね。

この『火門』抄出百句から、青鞋は、ひらがなの使い方が絶妙なことを再認識しました。さらにまとめて味わう機会がほしいものです。

ところで樹木医艸拓氏は、

木が腐るあたまかかへて木が腐る

滑稽になるまで茂り合ふ木かな

の二句に感じいってをりました。