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「苦手」には「消滅してほしい」という意味は込められてはいない。

消滅してほしいものごとに対しては「消滅してほしい」と記すことはあるかもしれないが「苦手」と記することはない。

昨年ネット上での「萌え絵」を巡る議論をみていてあらためて気づいたのは、わたし自身が、創作物一般についてそのキャラクターなどを商品パッケージや集客ツール等にしたものを見ることが苦手なのだ、ということだった。

これは作品の好き嫌いに関らない。

たとえばの話、食料品や日用品のパッケージに「草薙素子」が印刷されていても、ベルニーニの 《聖テレジアの法悦》 が印刷されていても、 ベーコンの 《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作 》 が印刷されていても、そうしたデザインは「苦手」である。

さかのぼれば、小学生のときコカコーラボトラーズが販売していた飲料「HI-C」の広告デザイン及びCFに、アニメ版サザエさんが使用されていたのが「苦手」であった(アニメ版サザエさんは日曜も火曜の再放送もかかさず視ていたというのに)。

こういうときはあっさり「嫌い」といえば簡単なのだろうけど、なぜなのか「嫌い」というのとはまた違った感じなので敢えて「苦手」だと表わしたいのである。というのも、いざそうしたものが市中に雑然と混じっている光景となれば、それはもしかすると「好き」といってもいいものだからである。

秋葉原は「萌えの聖地のようになってしまった」と歎くひとたち(オーディオマニアなど)の気持はとてもよく分かるが、雑然都市・東京全体を俯瞰してみて、そのような趣味の街がスポットされること自体はとても愉しいと思うのである。大昔神保町にスポーツ用品店が立ち並ぶようになったときは「うへえ」と歎いたものであり、いまでも自分とは縁の薄いスキーショップの前を通るたびにツマラぬ気持となるのだが、脳内カメラを引いてみて、老舗古書店とともになぜかスポーツ用品店もある街(隣接地区には萌えの聖地)を俯瞰するとそれなりの「趣」を感受しはじめるのが不思議なのである……。