「加藤郁乎なんて全然分からん!!」という方のほうが大多数じゃないかと思われます。わたしは一句一読して魅了されました(「一毒」と申しましょうか)。

それで、なぜ即受容できたのかといえば、自分の脳髄の構造が受け入れやすくしてるんじゃないか、と考えられるような気がしてます。

たとえば、身内の友人に栗山さんという方がいて、みなから「栗ちゃん」と呼ばれているんですが、ついわたしは「最近『宮ちゃん』と会っているの?」などと訊いてしまうことがあり、「だれ、それ!?」と怪訝な顔をされることしばしばなのです。
なぜ「宮ちゃん」になってしまうかというと・・・
kuri-yama → kumi-yarami-ya→宮
という無意識裡の<交換/選別>操作があるからなんですよ。

かのじょに対しては更に「近所の熊野神社」のイメージが随伴するのが常なのですが、それは、お察しのとおり、
kuri-yama→熊
という機序があるからなんですよね。。。「宮」と「熊」から「熊野神社」なわけなんです。

怖ろしいことなのですが、そのことに気づいたのは、じつは、ずーっとずーっと、あとになってからなんです。

とはいえ昔から、『雪国』の著者=徳川家康と結び付けてしまう癖があり、それについては、

というように<スライド/置換>操作してしまっていることに気づいてはいたんですけどね。

やっかいな脳髄ですよね。

でもそのおかげで、加藤郁乎の作品を堪能できているので、ちょっともうけもんなのかもしれない、とは思います。

「郁乎句髄脳は吾が脳髄にあり」といってみてもいいでしょうかね……。