JOJO広重さんの「Aくんのこと」を再読する。
もう10回近く読んでいる。
最初に読んだときは涙が滂沱滂沱と流れて仕様がなかった。2回目のときは通勤電車のなかであったが、朝っぱらから目に涙がたまって困った。
この哀切感は死んでしまった己れの友人のことを想起するからではなくて、各員が肉体という乗り物を不器用ながら操舵せざるをえない個(孤)であることが滲滋味と呼び覚まされることによって生じるのだろうな、と考える。

と同時に、追悼とは紐帯の末端ではないかとも考える。野生の象が以前の象とは違って見えることになったのは、奴らも死んだ仲間の死地を訪れることがあるらしいとの記事を読んだことにあり、これは、小学校の国語教科書で読まされた戦時中に薬殺された上野動物園の象の逸話よりもずっと重要なお話だと感じた。

ピンとこない人には、もう少し拡張して、ギーガー描くところのエイリアンが、敵に殺された仲間を追悼する生物だと想像してもらえば、彼らがわれわれにとってもはや剥き出しのエイリアンではなくなることに気づくのではないか。拡張しすぎというのならば、弊屋の住人を散々悩ましてをるクマネズミ、繁殖期を迎えてなほ一層うるさい街のカラスども、蛇蝎、ホオジロザメなどなどが死んだ仲間の死地を訪れる生物だと仮定するとどうだろう……。まだピンとこない?

それと、昔は輪廻転生をほとんど疑うことがなかったのだけれど、気づけば、人生は一回きりだと信じている己れがいて、まさに世界の塵のような生だからこそ、回想したいときは回想へ、追悼したいときは追悼へと向う内的自然の勢いに思いをまかせればいいのではないかと得心するようになったのだと内省する次第でもある。

以上、まとまりがないが暗黒週間のなかで記してみた。