このふた月、必要な知識を共有しないで(あるいは、共有しにくいムードを醸成することで)、正規雇用者が相対的に優位に立つということがまかりとおっている(としか思えない)職場で働いていた。

十年近く前に「成果主義」という言葉がはやったとき、もしそれが導入されたら、各従業員による情報・知識の非共有化が社内に罷り通ることだろうな……と予感したんだけど、「成果主義」ではない職場の人間がそんな料簡でいるというのは情けない限りだ。

6年前、にっちもさっちも行かなくなって、埋立地にある工場で日雇い工員としてひと月程働いていたことがあって、その工場の仕事を紹介してくれた東北出身の調理師から事前に、「いまは無情な人間が増えていて、トイレのある場所すら教えてくれない奴もいるからしっかりやりなよ」と云われたことが滲地味と思い起こされる……。

職場を長く働きたくない環境とすることに貢献しているのは企業全体(つまりは経営トップ層)であると云うのは簡単だが、濁流の原因がすーっと川下において生まれていることも少なくないと感じる。そして、その原因の主体がたったひとりの正規雇用者であるということも少なくないのではないかと推察される次第であるが、因果系列をどこで断ち切り、どの主体の責任・義務と結びつけるかは何時の時代に於いてもムツカシイ問題であるよなーと痛感する次第でもある。

行為と必然性―決定論的世界観と道徳性 (哲学大論争シリーズ)
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