きょうは渋谷・HMV(3F)での、臨時特番『うたの時間』トーク:JOJO広重/五所純子、ライブ:見汐麻衣(埋火)に行って来た。

JOJO広重さんの良い聴き手ではない俺が何ゆえ足を運んだかといへば、なにかしら森田童子への言及があることを予想し、あの、ノイズ界の巨人が森田について何かを語ることを直接耳にできるのではないかと期待したからである(それはちょっとではあったけど叶った)。

JOJO広重さんはとても温和で優しい語り口の方なので吃驚してしまった。マイクを持たない左手を猫手(軽いぐー)にして膝の上に置いていらっしゃったのが印象的であった。

最近とみに(?)女性ミュージシャンのプロデュースを手がけておられることについては、日本の女性ミュージシャンは(結婚や出産のため)男性と較べて概して活動期間が短いので、才能のあるひとたちが現れたら何とかせねばならないから云々という意味のことを仰られ、「わたし、フェミニストですから(笑)」と自称された。直後に対談相手の五所純子氏からそれを裏付けるような言葉があったのだが、高校生の頃噂に聞いた蝉丸嬢の放尿ステージ(つい最近某所にて鑑賞できた)を思い出し「フェミニスト」に含蓄された微妙な可笑しみを噛みしめていたので正確な言葉を把握できなかった。とはいえ広重さんが、ある種のギャラントリーをもって女性ミュージシャンと接しているのであろうことは五所氏との話しぶりからも容易に想像できた。

そこからの更なる想像ではあるが、某所(Y*u*u*e)では確か五輪真弓の有名な曲に「ヴォーカルは女性に限る」という旨の極論コメントが付されてあったのだが、今回の持ち寄り曲が全て女性ヴォーカルであることからして、もしかすると現在の広重さんも同様の心持ちなのだろうかと思ったりした。

<会場で紹介された曲>

扨、当イベントの(個人的であるが最大の)肝は、五所氏の「JOJO広重さんの文章を読んでいると喪われたものへの感触を大切にしていることが伝わってくる」という旨の言葉だった。ああ、そうなのかと思った。そこに、昭和を代表する数々の挽歌を残した森田童子が接続されるではないか!と*1

と同時に、挽歌は本来女性においてこそ優れて表現されるのではないのか? という(ほとんど根拠のない)思いつきに頭が支配されてしまった。もしかすると子守唄と同様に「女性に限る」のではないのかと。

たとえば子守唄については、満鉄調査部時代の東海林太郎が、酔って寝てしまった上司を膝枕して「赤城の子守唄」を歌いあげた逸話があるのだが、俺はそれを知ったときにどうしても違和感を払拭できなかった。いまその部分(草柳大蔵著『実録満鉄調査部(上)』、120P、朝日新聞社)を再読してみたのだが“男の低唱に酔いを美しくし、東海林の献身に胸が熱くなった”という証言にジーンとくる気持ちは毛頭湧いてこない。唯困惑するばかりである。これは俺が今迄一度も男子だけの世界に飛び込んだ経験がないせいなのか? ホモソーシャルな世界への参加経験に乏しい、男としての欠陥...。

話があらぬ方向へと飛びそうだ。睡魔に抗しているので論旨が滅茶苦茶になっているに違いあるまい。

ともかく俺の課題は万葉集をいまいちど通読することだ。

おやすみなさい(そうだ!「赤城の子守唄」を聴きながら眠りについてみようか)。

「赤城の子守唄」by東海林太郎

*1:このことはつまり、私がJOJO広重さんのブログをあまりにも漫ろに読んでいたことの証左であるわけで、これを機に是非『みさちゃんのこと』を買わなくてはと思ってをります