『木』

特定の誰かの作品というのではなく、あんな感じ、こんな感じなものを味読したいと思ってタマタマ手に取った一冊が、

幸田文『木』(新潮社)であった。

あんな感じというのは、外部世界の、特に生物や自然現象の観察をできるだけ単純・明解な言葉で記したもので、客観描写と主観独白のあわいから、著者の人柄・生き方なんかが垣間見れるような感じ、であった。

こんな感じというのは、できるだけ度量衡・単位や科学の固有名、理論や方程式名などに触れぬもの、そうなると有季定型俳句に如くはなしとなるのだけれど、今回は短詩ではなく散文、それもおそらく文人のエッセイなんかにありそうな感じがした。

偶然手にした『木』がまさにこれに適っており、ちょっと大げさに言うと、偶然すぎてなにやら必然(導き)らしきものを感じたほどだ。

「えぞ松の更新」p15

ふと今の木の、たくさんに伸びた太根の間に赤褐色の色がちらりとした。見ても暗いのだ。だが、定位置の加減でちらりとする。どこからか屈折して射し入るらしい外光で、ふと見えるらしい。そっと手をいれて探ったら、おやとおもった。しかも外側のぬれた木肌からは全く考えられないことに、そこは乾いていた。林じゅうがぬれているのに、そこは乾いていた。古木の芯とおぼしい部分は、新しい木の根の下で、乾いて温味をもっていた。指先が濡れて冷えていたからこそ、逆に敏感に有りやなしのぬくみと、確かな古木の乾きをとらえたものだったろうか。温い手だったら知り得ないぬくみだったとおもう。古木が温度をもつのか、新樹が寒気をさえぎるのか。この古い木、これはただ死んじゃいないんだ。

「木のきもの」pp78-79

(...)木の幹を雨水が上から下へ流れるのは当たり前なことだが、あまり繊細で綺麗な流れなので、しばらくは見惚れ、そしてこの、世にも美しい小さい流れの、水量をはかりたいものだという気になった。量る道具は何も持っていない。持っている筈もない。あるのは自分のからだと傘一本だけなのだ。からだの中で使えるのは、手だけしかない。右手四指と親指を叉にひらいて、手の平を直角に幹へ押しつけ、雨水が手の厚さをこえてあふれるのを、呼吸の数で量った。いまはその手の平ももう肉薄に痩せているが、当時でもたしか二呼吸ほどで水は手をこえたと覚えている。新緑の雨は、思ったより冷たかった。


「ひのき」では製材所を見学する幸田文がいる。彼女は、伐採した檜のなかには「アテ」とよばれる、どうにも用途がないワル(ハズレ木)があることを職人から聞かされ、ぜひともそれを確かめたいと後日わざわざ製材所を再訪するのだが、実際のアテを見て「どうにかならないものか」と、ただただ途方に暮れている。

不良材木への憐憫の情の屡述に対して、読者が若干の過剰さを受けとめるであろうことを作者としては想定しているのだろうけれど、もしオレがその場にいたら、「アタシなんざぁ、アテを活かせない人間という奴が、ただソレダケのもんなんだと思いますよ」と、余計なことを口にしていたかもしれない。


木 (新潮文庫)

木 (新潮文庫)