不在
昨日古書店で入手した、『現代フランス文学13人集3 トマ■デ・フォレ■クノー■ベケット』(新潮社刊)をもって、飽きもせず、鉄砲洲大川端に行く。
どんよりした空で過ごしやすかった。
女性がひとり、青年がひとり、それぞれあとからやってきて、イスに腰掛けたたずんでいた。
歩きながらルアーを楽しむアングラーもいた。
さて、と鞄から本をとりだして、さらさらとページをめくってみて吃驚。
ベケットの部分が切り取られているではないか。
どうりで200円也のはずだ(中原昌也ワールドならば、そのまま本を隅田川にブチ込むところだろう)。
目的はあくまで、クノー「わが友ピエロ」、デ・フォレ「狂った記憶」だったのでそれほどショックではないのだが、夜も深まってきた只今、ある散財への正当化が頭を擡げて来た。
すなわち、モーリス・ブランショ『書物の不在 』(叢書・エクリチュールの冒険).月曜社刊、これである。
私は、別段ブランショが好きなわけではないが、昨日たまたまABCで手に取ってみて、その造本にすっかりやられてしまっていたのだ。
WEBでは決して伝わらない、この朱色と黒から受けるインパクトのマッシヴなこと(因みに質量は軽量)。一挙にゾーンを突破した煩悩を抑えるのに苦労した。
つまり、私はこれを奇貨として、「不在のページ」を、『不在の書物』購入で贖おうと思うのである。強引なつじつま合わせであり、たんなるダジャレなのではあるが、もはや必然性すら感じ始めているのだ。明日は月曜日で出社だし。
とはいえ、通年「不在の金銭」に悩まされている人間が、言葉遊びで無理やり正当化する散財を、果たしてアッサリ許していいものであろうか。
まあいいや。明日、本屋で決断しよう。