きりしたん語なんかいんごうな

見な見ぬこんてむつすむん地の極南 加藤郁乎

きりしたんの訳語のことだと、種村季弘の解説で知っていたが、その意味を調べるのをず〜っと忘れていた。ここでわかった(飛ばずとも、ブラウザーのステイタスバーに表示されますでしょうか)。

「Contemptus mundi(捨世録)」だそうだ。土曜日にでも図書館で、『吉利支丹文学集』、校註:新村 出/柊 源一、東洋文庫.で、一応確認してみよう。

それにしても、加藤郁乎の魅力は色あせない。(ネオ)京大俳句のフェミ闘士は「もうあきた」と詠んだそうだが、どうしてどうして、私のような無学な人間には七年落ち、十五年落ちが思わぬところで到来するので、嬉しい限りです。

でもほんとうのところは、一体全体なんだこりゃ、という驚きこそが真髄のような気もするので、(背景知識が必要な)意味は解んないけどイクヤ先生の吐く咒にすっかり魅せられている状態がもっとも分かっていることになるような気もする。たとえ部分的にでも措辞の意味が分かった途端に落ちてしまった憑き物が、なんとなく恋しい気分になってくるのだ。もう一度、神おろしを、とお願いしたくなるような......。

ところで、意外なところで、如上の雑感をすくってくれる卓見に出会いました。
小林敏明、『精神病理から見る現代思想』、講談社現代新書、p183.です。引用させていただきます。

 では、シニフィエから区別されるサンスとは、具体的には一体どういうものなのか。われわれはそれを、詩人たちの言説にみることができる。詩人は精神病者と違って、それを半ば意識的に創出することを知っているからである。たとえば加藤郁乎の次のような作品。

 情事サンドは川端やなぎこの水を見よ
              (「遊戯律」より)

 この語呂合わせをもてあそんだ作品を、既成のシニフィエですくい取ろうとするのはむなしい。もちろん、詩を読む側の権利としていかような解釈や読み込みをほどこされても、詩人にそれを拒否する術はないのだが、詩は多くシニフィエよりサンスに関わっている。


しかし、きりしたん言葉って、盲点だよなあ。「くるす」「おらしょ」「でうす」「はらいそ」は目にすることもあるけど、その他なにかないものかと、『隠語辞典』、楳火垣実 編、東京堂.を開いてみたら、盗賊語のオンパレードで笑ってしまった。じくじく読み進めて通読したくなった。