『流血鬼』、『老年期の終り』

藤子・F・不二雄 短編集「ある日、悪

藤子・F・不二雄短編集より、『流血鬼』を再読する。

40ページ前後の、非・劇画というより、むしろ児童マンガタッチの短篇が、一本の映画、あるいは一作の長編小説に匹敵する濃密な経験を与えてくれることに驚く。藤子F は凄い漫画家だったのだなあ。
(しかも、ブクオフで105円である、なんたるお買い得感!)

『流血鬼』のストーリー概要wikiによると以下となっている。

この物語では、ルーマニアから広まった謎の奇病によって、主人公たち以外の人物が吸血鬼だらけになってしまう。主人公たちは木の杭で吸血鬼を殺し廻り何とか吸血鬼たちに抵抗するのだが、吸血鬼(新人類)たちは自分たちの仲間を増やそうとしているだけであり、特に何者かに危害を加えようとしているわけではないのだ。主人公たちから見れば、吸血鬼(新人類)は敵であり、吸血鬼狩りは正義と感じているのだが、吸血鬼(新人類)側から見れば、自分達は仲間を増やそうとしているだけで、主人公たち(旧人類)の吸血鬼狩りを侵略行為と見なし「流血鬼」と非難している。ここにも、藤子・F・不二雄の価値観の逆転の発想が伺える。主人公いたち(旧人類)から見れば、自分達は正義で吸血鬼(新人類)は「悪」と感じているが、吸血鬼(新人類)から見れば、主人公たち(旧人類)の行為は残虐な殺戮者そのものである。これは、現実の世界でも同じなのである。人間は異質なものを避ける動物でもある。自分とは違うものを嫌悪し、時には排除しようとする事もある。それが人種差別や民族紛争に反映されているのだ。所詮、物の価値観というものは、実際にその立場にならなければ分からないのである。ましてや善悪も同じなのである。自分達が頑なに否定してきたもの全てが「悪」と言う保証は無いし、逆に今自分が信じて疑わないことが「悪」でないという保障も無い事を考えさせられる。こういったテーマは、帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」に通ずるところもある。


価値の相対性や価値観の転倒を予想外のクライマックスとして用意するのは、藤子F短篇のお得意ではある。でも私にとって、『流血鬼』は、それ以上のものを感じる。

その感情は、徹底抗戦していた仲間が捕らえられ、最後の人間となった主人公も、幼馴染の女の子によって、新人類(太陽や十字架が苦手)にされてしまった最後のシーンにきてワっと沸いてきた。最終ページで、夜の住宅街に笑顔で出て行く彼らの表情(3コマ)。主人公の独白。
「今から考えるとおれ、ばかみたいだよ。どうしてあんなに新人類になるのをいやがったのか。」
「気がつかなかった。赤い目や青白い肌の美しさに!」
「気がつかなかった!夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」

ず〜んとくる哀切感だ。何度読んでも、ず〜んとくる。
価値観の転倒をブラックに描いた手際にず〜んときているのではない。
なんだかよくわからないのだが、「哀切」を感じていることは自覚できる。それは、これまでの長い愛着ある歴史を捨てることへの悲しみだと、とりあえずは言い表せるけれど、私の過剰な読み込みが多分に働いているのだろう。

いずれにせよ、自分がめでたく新人類になってしまう光景を思い浮かべるから悲しいのか、それとも、自分だけが旧人類のままで取り残される光景を思い浮かべるから悲しいのか、どちらを想定しているのだろう......どちらも同じように悲しいよ。

私は牽強付会に加え、どっぷり衒学的に、M・フーコーの人口に膾炙した一節を引用します(新潮社・田村訳)。

ともかく、ひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。(略)それは知の基本的諸配置のなかでの諸変化の結果にほかならない。人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば―そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。

これを、ある文学者(清水徹渡辺守章?)が刊行当時にパリの黄昏の中で読了して、なんともいえない感慨に襲われたと語っていたけれど、私は、21世紀初頭トーキョーの深夜に読了した『流血鬼』によって、なんともいえない感慨に襲われている。

そんで、フーコーではなく、がんばって、ジャンケレヴィッチを読んでみるかなと考えている(ホントかよ......)。