V.E.フランクル

ユダヤジョークの出だしで、なんだか強引にひぱり出したフランクルであるが、私が感じるかぎりでは、この精神科医/思想家の日本での受けとめられ方は、かの「収容所」を生きのびた地獄からの帰還者・証言者という認識にとどまっていやしないだろうかと、ちょっとした気持ちの引っかかりがある。

じつは私自身がそうだった。フランクルよりも先に、石原吉郎を読んで悦に入っていた半可通だった。
しかし、読まず嫌いはいけないと、いざ、みすず書房からの数冊、春秋社から出版されている講演集数冊を読んでみると、超高度なサバイバル術の教官(プロフェッサー)が、惜しげもなくその得がたい経験と知識を読者に与えてくれている書であることに気づき、「おおお」と素直に感動したのである。と同時に、「時間」と「存在」についての哲学的思考を、ハイデガーのように難解な語彙によらず、注意深く読み進めるうちにそれとなく考えさせてくれる、貴重な哲学教師としての側面も実感するようになった。

前者としての謂いは、強制収容所にあった彼が、その過酷な状況にのまれないために、「現在」であったその非情時を、戦争が終結して無事ウイーン大学教授となり、講堂の壇上で大勢の聴衆を前にして回顧している「過去」として認識するようにしたという、大胆な思考実験というか、きわめてプラグマティックな現在把持の技法を紹介しているコトにつきるだろう。でも、果たしてこれは、万人に開かれた方法なのだろうか?否である場合、どのような精神がそれを可能とするのだろうか......たいへん興味深いのは、あの、内田樹先生が、しばしばフランクルと類似した戦略について述べていることである。内田先生が依拠するのは、ご自身の合気道での経験、研究対象でもある、フランスの精神分析医/思想家・ジャック・ラカンが展開している「未来完了」というキーターム、そして、知己の格闘家たちが伝える体験談である(このことについては、どなたかのブログ上でも御指摘されていたかと思うが、URLをデリートしてしまった。。。ご紹介できなくてちょっと残念)。

内田氏の最近の言及例
http://blog.tatsuru.com/2007/02/20_1015.php
http://blog.tatsuru.com/archives/000828.php

そして、「時間」と「存在」については、人生に於ける苦悩を業績として、つまりは、人間は苦悩する存在=苦悩を業績とする存在とみなし、万人が恐れる死をもってこそ、すなわち、「過去形の存在者」となることで、我々は完全な存在となると語っていることに、読者は彼独自の思考を、あるいは、真摯な宗教者としての世界観を感じ取ることになるだろう。

誰もがその存在固有の苦悩を抱え、そこから解放された・されなかったに関わらず、その重みを支えた存在として、死をもって永久の業績と化すこと......この言葉に文学的な芳香を感じる方も少なく無かろうけれど、フランクルにあっては、文学的修辞を以ってして読者を酔わせるような態度は皆無であるので、まさにその通りに彼は考えていたと受け止めざるを得ない。

そう、私も実感している。人類が消滅してしまった後、あるいは、まだ人間並みの知性が誕生する以前の(世界の)過去を措定することができ、それは、接続法的に要請される観想的存在でもあり、かつ、十分リアルな存在でもある。つまり、そこには、我々を引き継ぐ誰かの記憶・回顧は必要条件ではない。全ての認識者が死に絶えた後であっても、かくかくしかじかの出来事が生じたこと、そのこと自体は過去形で実在している。このような、過去の実在論的把握を否定することは、私にとって予想以上に困難なのである。

それでは、人類が滅びてしまった後にも、我々の生きた時間・あり様が過去として・事として実在することを一体全体何が支えているのだろうか。敬虔なユダヤ教徒であったフランクルはそれこそあっけなく「神」と答えたかもしれない。しかし、神を持ち出さずとも十分な支えを構築できるのではないか......いや、けっきょくは、一種のプラシーボ、あるいは、語用論的に有益な言明としてとどまるのではないか......いやいや、全くそうではなく、単なる存在負荷的言明にすぎないのだ......などなどと、気がつけば、「時間」「存在」「実在論」を巡って、まさにグルグル巡っている自分がいることに気がつくのであります。