『宇宙戦争』『ラストシューティスト』

いまさらながら、スピルバーグ監督『宇宙戦争と、ドン・シーゲル監督『ラストシューティスト』をレンタルで観る。

該博な映画通のN天先生が口をきわめて絶賛していた『宇宙戦争』は、たしかに傑作とよんで差し支えない作品だと感じたが、主人公と彼の娘が、知らないおっさんの家にかくまわれるシーンに来て、プツンと緊張感が切れてしまった。あの、あまりにも有名なエンディングが待っているかと思うと、「どうせね、奴等、斃れるんだもんな、ははは.......」と安心してしまったのである。そういう意味では、スピルバーグはチャレンジャーだったと言えるかも。

まあとにかく、冒頭からそのシーンまでの緊張感は出色といえる。
やけにグラッシーな冷たい空気の中で、地中から「マシン」が、円谷プロ的手法で、モリモリと地面を鳴らしながら顕現するシーンの静寂さが殊に印象深い。『未知との遭遇』でも同様であったが、彼が演出するイメージのリアリティは、一種の既視感覚(デジャ・ヴュ)を齎すと言ってもいい。あの、怖くてワクワクする感じって、近い将来に必ずや「何か」が出来するであろうという終末論的感覚と、実は遠い過去にそれに似た経験をへてきているような謂わば模造記憶がない交ぜになったものだ。
でも、この映画は、私にとってここまで。

それ以降は別に、911のテロなんかとの結びつきなんてどうでもよく、むしろ、『未知との遭遇』『ET』『グレムリン』(総指揮)の変遷を念頭に置くと面白く感じられた。人類にとって神の如き超越存在だったThe 3rd kind、子供らの友達だったET、かわいいペットだけど鬼に変貌するギズモ、そして、初手から容赦なく人間を殺戮するトライポド......そうだ、トライポドって『風の谷のナウシカ』で有名な「巨神兵」に似てないだろうか、とくに最後のシーンで死に様を晒す姿。

あと、意図してるかどうかは別として、ブラックなユーモアを感じたのが踏み切りのシーン。『未知との遭遇』では、遮断機が下り警笛音が鳴り響くなか徐にUFOが飛び去っていったが、『宇宙戦争』では、主人公たちは火の粉を散らした列車が通り過ぎるのを待つことになる。

また、『未知〜』のなかで、コンタクト音を使用して宇宙船と交信する最中に彼らからの信号音が一瞬大きく低音に外れ管制塔のガラスを割る場面があったが、その管楽器系の響きと、『宇宙〜』のトライポドが響かせる音が酷似している。そこから、『未知〜』の超越者が、ギズモの如き鬼に変貌し、人類を皆殺しにやってきたというシナリオが連想されてしようがない。

スピルバーグの、斯様なるオプティミズムからペシミズムへの移行が時代の趨勢とコレスポンドしていることは論を俟たないけれど、もし次に、未知なる他者を描くときはどのような存在を提示することになるのだろう。我々人類こそ、地球に派遣されたETであり、母なる星から送られた情報端末器であった、というのはあまりにもベタ?

それと、「大阪ではトライポドを3機やっつけたらしいぞ、日本人にできるんだからオレたちだって!」というシーンを見て、上映国別に差し替えているのではと邪推したが、どうやら特撮王国だった日本に敬意を表したものらしい。でも、差し替えてみるのも観客を感情移入させるためには効果的ではなかろうか......?

『ラストシューティスト』はもっと早くに観ているべき映画だった。もうこりゃ傑作だ。
特に撮影監督のブルース・サーティスのテイストが、「死期を知ったガンマン最後の一週間」という主題にピッタリ。もう見事なくらいはまっている。特に、理髪店のシーンと、いくつかの天井扇が微かに音をたてて回る酒場の採光・カラーは、主人公最後の日であり、また最後の誕生日となる1901年1月29日の小春日和を、透明感あるあたたかさで伝えてくれる。これからずーっと私の記憶に残り続けるであろう名シーンだ。

因みに、N天先生は「エンディングに向かって日毎の日付が挿入される作品って、『未知との遭遇』以外思いつかないんだよな、もっとありそうなんだけど」と仰ってましたが、すくなくとも一年前に『ラストシューティスト』がやってました......といっても、先生はパソコンもWEBもやってないから今度教えて差し上げよう。

(追):N天先生ご本人に確認したところ、「おいおい、そんなこと言った記憶は全くないぜ!」とのこと。ただ、日付が出る映画を挙げよと言われてもスイスイ思い出せるわけじゃないけど......と仰ってました。
とりあえず、私の記憶違いかもしれません。


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